江國香織の東京タワーの一言はいつも忘れられない。
あれはフィクションで、いうなれば現実にはなかなか起きえないことは
良く知っていても、それでも起きて欲しいという欲望の表れだけど。
「恋はするものじゃない。堕ちるものだ。」
美しい岡田准一君演ずる主人公が、プールの飛び込み台から逆さまに
落ちていくシーンのなんと印象深かったことか。何年たった今も
あの薄暗いワンシーンはよく憶えている。
恋に堕ちてみたい。この短く儚い泡沫の人生の中で、たった一度でいい。
後戻りできないほど、誰かに深く惹きつけられたい。
そして、叶うならその人を深く惹きつけていたい。
本当にそんな人に出会ってしまったら、平凡ながら幸福なこの毎日が
根本から崩れ落ちていってしまうかもしれない。もしくは今よりもずっと
満ち溢れた幸せの中に生きれるかもしれない。
ただ、そういう恋愛は得てして危険なもののように思う。文字通り、ヒトは
恋をして狂う。深く落ちていけばいくほど、もうそこから出ることは出来ず、
ある時点で何らかの決断を下すことを迫られる。
そして、大抵は不幸な結末を迎える。表面上は何事もなかったかの様に
出来るかもしれないけど、それは不安定な、いつ崩れてもおかしくない
バランスの上に立つ、砂の城の様なものだ。強い風のひと吹きで、すべて
消え去ってしまう。
もうだいぶ、私はそういうものから離れてしまった。
私を取り巻く現実がそもそもそれを許さないことにも起因するものの、
ある時点で醒めてしまった。今も恋に堕ちたいという気持ちが胸の中に
あることは否定しまい。ただ、砂糖菓子の様に甘い希望だけを信じる
ことが、出来なくなってしまったのだ。
静けさが欲しい。打ち寄せる強い感情の波から自分を守る防波堤は
まだ出来上がっていない。遠く、暗闇を音もなく裂く雷の光を、静かに
眺めている。