志賀直哉『小僧の神様』の構成がどのように物語の立体性を確立させているか

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 物語とは叙述であり、物語が物語成り得ているのは「何か」若しくは「誰か」の責任のもと、叙述が連続的に行われているからである。志賀直哉による『小僧の神様』は、秤屋の小僧「仙吉」と貴族院議員「A」のそれぞれの視点を交互に描くことで、この物語という叙述行為に立体感を持たせている小説だ。本論は、このような特徴的な構成がどのように物語に奥行きを与えているのか一つの読みを示そうとするものである。

 

 自分という存在は他者との接続があって初めて成立するもので、これは主観に客観が加わることで一次元的であった存在が多次元存在に昇華することに由来する。そもそも他者との接点無しに物語は成立しないのだ。ならば物語にするには他者の存在を定義することで主観もしくは、主観を外から傍観する客観を視点とする必要がある。

 だが、主観はどこまでも主観でしかなく自身が観測する世界に束縛されており、客観及び三人称視点は主観が主観でしかないように、主観を物語を受容する者には提供し得ない。そこで本作が選んだのが二人の立場も年も違う者の視点を章ごとに交互に描くことで、主観一と主観二の二つの点から事象を観測し、二つの価値観を同世界に確立させることで立体的な物語構造を形成するという手である。

 

 仙吉は「通らしい口をききながら、勝手にそういう家の暖簾をくぐる身分になりたいものだと思った」と、小僧という従属的な身分から独立した存在である番頭を目指す「一人前」に憧れる少年だ。「通らしい口」という本当にその道に精通しているのか否かも不明な姿に憧れる様は仙吉の小僧らしさ、野心的で意欲的な姿勢を一層印象付けているといえるだろう。一方、二つ目の視点であるAは貴族院議員という一人前とされる身分であり、社会の意思決定機能の一端を担う程独立した人物である。しかしAは、鮨屋で鮨を食べられなかった仙吉について語ったAに「御馳走してやればいいのに」と提言するBに対し、「小僧は喜んだろうが、こっちが冷汗ものだ」と、仙吉が夢見る一人前に兼ね備えられている「粋」の要素が欠如していることがわかる。一人前に憧れる仙吉と、一人前の身分であるのにも拘わらず一人前としての要素が欠如しているA。この相反する身分の者たちが接点をもち互いに思案し、再び接点をもち思案する構成こそが物語の立体化を実現させる基底なのだ。

 

 しかしながら、人物設定と構成は飽くまでこの小説における立体の骨格に過ぎない。物語を肉付け、奥行きを与えるのは各人物の時間軸に沿った感情の起伏の差異である。例えば本作には、仙吉を知ったあの時、Aが仙吉に奢ってやれなかったという後ろめたさから仙吉の勤める秤屋に出向き、仙吉を指名し外に連れ出して鮨を奢る場面がある。仙吉はこの時、客として店にたまたま訪れた人にたまたま指名され、その人の気分でたまたま鮨を奢られる豪運から「嬉しかった」という肯定的な感情になる。けれどAは、自身がわざわざ鮨を奢るために、自身が「粋」な大人であると証明するために鮨を小僧に奢り、自尊心を満たしていることから否定的な感情を抱いている。同じ時間軸の同じ時間に存在しているのに、一方はプラスの、もう一方はマイナスの感情を抱くこのそれぞれの起伏が生み出すサイン波とコサイン波が織り成す螺旋構造こそが多次元的物語を成立させているといえる。

 

 志賀直哉『小僧の神様』は発表から約百年が経つ今でなお多くの人に愛読される小説である。主観が物語を形成し、視点の数は物語に複雑性を与える。本作は、主観だけでは決して完結しない読者の住む現実世界にある複雑性を、相反する身分と感情を持つ二人の対照的な人物の視点を、交互に持ち出す構成とすることで再現している。この再現こそが、現実という自分と他者の叙述により創られる世界と、小説という「誰か」と「誰かにとっての他者」によって叙述される仮想的な世界を接続させ、その複雑性から物語に現実と似た説得力を持たせているといえるだろう。同じ時間軸上に二人の視点を繋ぎとめるという奇抜な構成をとりながら、なお物語に不和を生まない作者の物語の地盤づくりこそが、小説という「誰かの叙述」に現実と似た立体を与えているのだ。

1724字

 

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