今朝は北カリフォルニアの街で書き始めています。
先月訪れた時にはとても暑かったのに、わずか1ヶ月後の今週は朝夕はジャケットが必要な気温です。
季節はどんどん進んでいるなあと感じさせられます。
おちおちしていられない。
こうやって眺めると、上の様な作文の形態は、学校で習ってきた正しい文章の作法に全くのっとていないダメ作文。オンライン上の自由な短文投稿を眺めているうちに、エッセイ全体の構図すら絵のように仕立てている自分を発見して苦笑いです。
“私的遂行へと溶けきえていかない言葉というものは人をただ滞留させる。“
今朝、中島智さんという方のこの言葉を読んで、これを書いてみようと思いました。
少し前にXにアカウントを作り直しました。
中島さんの投稿を読みたいからです。
友人が会話の中で、彼の投稿を引用してくれた際に中島さんのことを知りました。
最近は少しずつ過去の投稿から追いかけながら新しい投稿を楽しみにしています。
生徒さん達へのメッセージを多く投稿されていますが、私の日常のある場面では救いだし、ある場面では慰めだと感じたりもしています。
2024年の8月は、数秘術で「7」の月。
おちおちしていたのでもうすぐ終わってしまうけれど、振り返ると、積極的に言葉を控える機会が多く、停滞していた“自分遂行“に再着手しようと試みたひと月だったように感じます。
私にとって、言葉は絞り出すような感覚のもので、たくさん話したり書いた後には自分がレモンの搾りかすみたいな気分になることが過去によくありました。アウトプットは大切だし、インプットも大切だけれど、どちらも自分の中の容器のちょうどよいところを大きく過ぎると、“自分遂行“が留まってしまって不快だったのだなと、気付かされた朝でした。
岡潔さんの言葉をアカウントのトップにピンしていらっしゃいます。
“スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだ“
自分遂行は、私が理解できる範囲ではこういうことなのだろうと、慰めにも救いにもなる言葉だなあと勝手に感じています。
来月9月は、「8」の月。
数字を使う数秘術がずっと好きなのは、数字がどんどん流れていくところなのだと書きながら改めて考えています。
チャートに点在する数字も、
1、2、3・・・・と連続する時も、
ひとつひとつでありながら、流れの中の“個“の意味を絶対的に無視されない。
数字をただの記号として扱うのは、ただの記号分けのレッテル貼りにすぎないからもったいない。様々な花が咲いて“春の野“となるのだろうから、と。
来月の数秘「8」は、「秋の野の始まり」の8。
というのはどうでしょう。
この世界に分散・配分されている能力、私たちそれぞれが目一杯に輝く。
私たち一人一人が自分を目一杯の力で輝かせる月。
次に続く「9」の世界に溶け混ざり存在する自分に期待をしたくなる。
来月9月は、そういうひと月になるといいなと思います。
中島さんが10代の頃の感情を、
“「好く」ほうが「好かれる」よりも確かな僥倖だと気づかなかった頃“
と、表現されていました。
少しズレるけれど、自己観察に置き換えると、
自分を好くことは難しい。
それでも自分を好こうとする行為は諦めないでおこうと思います。
野のスミレのような長女へ。
あなたの心はとても美しいと思います、月並みだけど、がんばって。
今日、昔からの夢のスタートラインに立つ長女に向けて。
Kiki
先日、Xで発見した動画。
心臓の筋肉も螺旋構造なのだとしたら、螺旋はやはりすごい。
Da Vinci wrote in his notebooks that the heart was "vortex oriented".
— Spellbinding Odyssey (@SpellOdyssey) 2024年8月3日
📹 outsubo.ana pic.twitter.com/ZtI25y0EeG