先日『ほとけ様に教わった毎日をハッピーにする90の方法』という本を買いました。
秩父札所十三番寺曹洞宗慈眼寺住職の南泉和尚という方が書かれた本です。
- ほとけ様に教わった 毎日をハッピーにする90の方法/ディスカヴァー・トゥエンティワン
- ¥1,512
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その中に『足元のゴミを拾ってみる』という項目がありました。
ゴミを拾うということは、勇気の問題。
身近な事に立ち向かう勇気もないのに、大きな問題に立ち向かえるか。
まず自分の身近なこと‥出来ることを一生懸命にやればよい。
そういう小さな積み重ねがあってこそ、大きな成果につながるのだ。
要約するとこういうことだと解釈。
『確かにそうだよなぁ‥』と納得したので、早速実践してみました。
娘を保育園に送って行った帰り、コンビニでもらった袋を手にいざゴミを拾おうとしても、やはり人目が気になっちゃいますヽ(;´ω`)ノ
車の通りも多く保育園の近くということもあり‥『誰か知っている人に見られたらどうしよう‥』『いいこぶっていると思われたくないな‥』などドキドキです。
なので最初はキョロキョロあたりを確認して誰も見ていない隙にサッと拾う(笑)
知り合いが歩いてきたらサッと隠れる(笑)
なんてやっていました(^_^;)
何故隠れる必要があるんだろう?
何故堂々とゴミを拾えないんだろう?
何故クリーンデーなどでもないのに(←参加したことないけど)ゴミを拾うことに恥ずかしさを感じちゃうんだろう?
それっておかしくないか!?ヽ(;´ω`)ノ
普通に歩くだけなら5分程度の道のりを自問自答しつつ、行きつ戻りつ時間をかけて歩いているうちにちょびっとだけ吹っ切れました。
他人のゴミを拾うことを恥ずかしいと思う方が恥ずかしい。
そう結論つけてドキドキしながらゴミを拾って帰りました。
何故恥ずかしいと思うのか?
今の世の中『自分達のことで精一杯』『他者を顧みる余裕などない』のが当たり前になってしまっていて『他者の為に尽くせること』が『当たり前』という枠からはみ出しちゃうからなんだろうな、と思います。
右に倣えの性質が強い日本ですから、枠からはみ出すのが怖い。
恐れているから恥ずかしい。
恐れは自分の心が生み出したもので、本当は恐れる必要なんかどこにもなかったりするのに‥
(余談:家に帰ってきてPCを開いてみると、心屋仁之助さんのブログで『恥ずかしいって、なんだろう?』 という記事がUPされていました。タイムリー♪)
ほんの少しの勇気を出して、車が通っていようが通行人がいようがゴミをサッと拾う‥
たったこれだけのことですが‥心がポカポカしました(//∇//)
ゴミを拾うことは、目の前の小さなことに向き合うということ。
それが『今を生きる』ということにもつながる。
そうやって見落としがちな『目の前の小さなこと』に向き合って生きていきたいですヾ(@°▽°@)ノ
夫に『ゴミ拾いしてきた』とか言ったら(言いませんけど)
『家のこともちゃんと出来んのにゴミ拾い!?まず家のことやってからにして!』とか言われちゃいそうです。
夫も『自分達のことで精一杯』『他者を顧みる余裕などない』側の人間の様です…
夫がそういう人間だからこそ、私に『他者の為に尽くせること』の大切さを教えてくれるのかも‥
『目の前の小さなこと』にはおろそかにしがちな『家のこと』があるので、まずは家のことに精一杯向き合おうと思いますヽ(;´ω`)ノ
お読みいただき有難う御座いました♪(*゚.゚)ゞ