【内観(14)】から続く〉

 以上に、この時期(2009年頃)に気づいた、かつての私の過ちを整理して記しました。次に、こうした過ちを二度と繰り返さないためにはどうしたらよいか、内観で気づき、そこからさらに発展して気づいたことを記していきたいと思います。

 前記の通り、内観では、自分が他者からしてもらったことを思い起こします。両親や兄弟、親戚をはじめ、友達、上司、会社の同僚、学校の先生などからしてもらったことを細かく思い出していくと、今の自分が、自分一人だけの力で立っているのではないことに気づかされます。とても多くの人びとに支えられて、生かされてきたことに気づきます。

 さらに、その対象をどんどん広げていきます。ここからは、内観をヒントにはしているものの、実際の内観で行う方法を超えていきます。

 たとえば朝起きて、朝食をとって、電車に乗って、学校に行くという行動だけを見ても、そこには無数の人が関わっています。

 朝食のご飯を作ってくれた人はむろん、米を苦労して栽培した農家の人、その米を包装し、運送し、店まで運んでくれた人。店でそれを売ってくれた人がいます。

 電車に乗るために駅まで道を歩いていきますが、道を整備してくれた人がいる。気持ちよく安全に歩けるように道を掃除してくれている人もいる。

 電車に乗れば、電車を運転してくれている人がいる。線路を敷いて維持してくれている人もいる。電車が走れるよう電気を作って流してくれている人がいる。電気を作るための石油を採掘する人、それを日本に運んできてくれている人もいる。

 そうした人たちが働けるよう、陰ながら支えている家族の人たちがいる。また、そういう人たち皆が安全に暮らし、活動できるよう、法律や経済などの社会のシステムをつくり、運営してくれている人がいる。

 そして、対象を人だけではなくて、自然にも広げていきます。

 朝食に出てきた米や味噌は、私の体内に入って力になってくれますし、体の一部にもなってくれますが、これは農家の人の力だけではなくて、太陽と水と土の力でつくられています。

 電車を走らせる電気を作るために必要な石油も、植物や地球の力でつくられています。歩いていけば当然行う呼吸も、木々の緑が酸素を生み出してくれているから可能なことです。そうした木々の緑も、また太陽と水と土の力で育てられています。

 朝食を食べて電車に乗って学校に行くという、ごくごくありふれた行動一つだけを見ても、実は数え切れないほどの人や自然から「していただいていること」があるからこそ可能だということがわかります。

 こうした物質的な面だけではなく、私は自分の思想や考え方を形成するにあたって、つまり精神的な面においても、たくさんの人から影響を受けています。両親のしつけ、学校での教育をはじめ、友人やマスコミの影響も受けますし、また古今東西の人物から書物を通じて影響を受けることもあります。

 そもそも私の発祥自体が自分の力によるものではないし、私の心臓すら私の意思で動かしているわけではありません。

 このように、物質的にも精神的にも、時間や空間を超えた無限の支えによって、無数の関わりによって、果てしない「つながり」によって、私は生み出され、育てられ、今ここにこうして存在させてもらっています。

 こうなると、もうどこからどこまでが厳密に「私」と呼べるものなのかすらわかりません。

 これは、仏教では「縁起」という言葉で表現されます。「全ての事物は相互に依存して存在しており、独立した不変の実体はない」という意味です。

 全てはつながっている、全ては一つ、と言ってもよいでしょう。

 この「つながり」から切り離されて、独立して、永遠に存在できるものなどないのです。

 これが「一元的な世界観」です。

 これは近年、科学的にも明らかになってきています。量子力学によれば、この世界には物質を構成する最小単位の質量ある物質は存在しない。つまり、モノをどんどん細かく分割していっても、もうこれ以上分割できないという究極のモノは残らない。しいていえば、そこにあるのは、宇宙全体に広がっていて、観測するときだけ一点に現れるという性質の現象だけだといいます。全ての事物は、バラバラなように見えて、実はつながっているということなのです。

 私は、こうした無限の「つながり」ある宇宙の中に生み出され、存在させていただいています。

 それは、どんな人だって、そうだということが容易にわかります。例外はありません。

 内観が大きなきっかけになって、私はそういう世界観がより強く認識できるようになってきました。私が子供の頃から大切にしてきた「大宇宙の意思」なるものに近づいてきたような気がしたのです。そして、先ほど述べた私の5つの過ちに対して、以下のように考えられるようになりました。

(1)特定個人の神格化などの個人崇拝を超えるために

 たとえ自分がすごいと思う人物がここにいるとしても、その人物だけをこの世界の「つながり」から切り離して評価することができるでしょうか。その人物も、これまで両親をはじめとする無数の人たちの力によって、無限の自然の力によって、生み出され、育まれ、今そこに立たせてもらっているのです。

 だとすれば、その人物だけを特に神のように崇めたり、ましてや、その人物以外をバカにしたり、その人物の命令で他の存在を傷つけたりするようなことができるでしょうか。

 そんなことはできません。
 
(2)善悪二元論で人を二分化することを超えるために

 今この瞬間も、私は無数の人たちに支えられて存在しています。

 この相互に無限の「つながり」をもって、様々な形で私を支えてくれている人たちを、単純に「善人」と「悪人」で色分けすることは、私にはできません。

 仮に悪いことをしているように見える人であっても、その人も無限の「つながり」の中で生きている以上は、ある「つながり」の中では――たとえば自分の親や子に対しては――善いことをしているでしょう。

 また、その人の悪い行為も、善い「つながり」の中での影響を受けて、改められていく可能性が十分にあります。悪い行為から苦しみが生じて改心し、善いことを行うようになる可能性もあります。

 いずれにせよ「善人」「悪人」を区別することはできません。

(3)自分への過度なプライドを超えるために

 無数の人が無限の「つながり」の中で私を支えてくれています。私が普通に朝起きて電車に乗ってどこかに行くだけでも、私が普通にお茶碗のご飯を箸でとって口に運ぶだけでも、そこには極めて多くの人たちに「していただいている」ことがあります。そう思えば、誰もが感謝の対象となります。天地自然の万物の一切が感謝の対象となります。

 ありがとうございます――そう私が手を合わせる相手に向かって、私がプライドを持つことなどあるでしょうか。いえ、その相手は、恩返しの対象となります。

 無限の「つながり」の中で生かされている私は、その自らの在り方に気づかせてもらったとき、過度な自意識――エゴが弱まって、プライドが弱まります。自分一人で生きてきたかのような思い上がり、他人と比べて優位に立とうという思い上がりが、恥ずかしく感じられるようになります。

 生かされ支えられているという感謝、無限の存在から「していただいている」ことへの御礼として、私が「してさしあげられること」を中心に考えるようになってきました。
 
(4)特定個人への依存心(怠惰な心)を超えるために

 どんなにすごく見える人であっても「つながり」から切り離して存在することはできません。その人、その部分だけを切り離して見れば、人はあまりに非力で不完全です。だとすれば、特定の人だけに依存しようという考えること自体が、そもそも不合理です。

 また、私自身を振り返って反省してみますと、依存心とは、人に何かを「してもらう」ことが当たり前になっていて、それへの自覚や感謝がない人が抱きがちな心の働きだと思います。「してもらう」ことが当たり前だから、それがクセになってしまっているのです。

 しかし、無限の「つながり」の中で自分が支えられていることへの自覚と感謝が生じれば、その感謝の表れとして、自然と、自分の「してさしあげられること」を他にやってあげよう、いや、やらせていただこうという意欲が出てきます。私の場合、それが依存心からの脱却につながりました。

 さらに、この世界が無限の「つながり」で存在しているということは、言い換えれば、複雑に絡み合っているということでもあります。だとすれば、特定の人による何らかの単純な行動――たとえば暴力行為などで世界があっという間に変わってしまうという魔法のようなことは起こりえません。

 あらゆる方面のあらゆる存在と密接に協力し合って地道に物事を進めていかなければなりませんし、皆がつながりを持っているのだから、協力すればたいていのことが可能なはずです。私の場合、そう思うと健全な希望もやる気も出てきました。
 
(5)他者への冷淡・無関心を超えるために

 私が今こうしてここにあるのは、無数の人たちに「していただいている」ことがあるからこそ。無限の支えがあるからこそ――。それがわかってきて、感謝の心を持って、「してさしあげられること」を考えるようになってきました。

 こうして、他者への冷淡・無関心を少しずつ超えていけるようになってきました。

 以上に、私がオウム時代に犯した過ちと、その過ちを克服するための内観的方法について順に記しました。

 ここでのポイントは、「つながり」を回復していくことです。

 私の過ちは、「つながり」を切り離したことから生じていたのです。

(※なお厳密には「つながり」は回復したり切り離したりするものではなく、人の主観にかかわらず常につながっているものですが、人間は錯覚によって「つながり」を切り離して見たり、その過ちを改めて「つながり」を再認識することがあります。そういう作用を指して、以下に、「つながり」を切り離す、広げる、狭める等の表現を使います。)

                                       〈【内観(16)】へ続く〉