【内観(12)】から続く〉

●「あんたはどこに行っても、うちの子やで」

 その翌日、両親には、私がオウムを脱けてから今までの経緯を話しました。

 今やろうとしていることは、オウムを反省・総括して、二度と宗教テロを起こさない・起こさせないための活動であって、自分はオウムという組織を支えた責任を感じていて、いろいろな人に対して責任をとるためにも中途半端に投げ出すわけにはいかない、自分なりに人生にケジメを付けるつもりでやっていること等を話しました。

 父も母も一応の理解を示してくれましたが、それはたぶん今の私を受け入れようと、かなりの無理をして受け入れてくれているのだと思います。

 「被害者の方には誠意をもって対応するんやで」という母の言葉は、何としても守っていくつもりです。

 東京に戻る私に、母は、手編みのセーターやら弁当やら正露丸やら、非常にたくさんの荷物を私に持たせて、父と一緒に見送ってくれました。

 私は、この20年間、単に苦痛を与え、迷惑をかけただけの存在だったのにもかかわらず、両親は何の見返りもなく、あたたかく迎え入れてくれました。

 内観でいえば、「していただいたこと」ばっかりで、私が「してさしあげたこと」など全くといっていいほどなく、「ご迷惑をかけた」ことばかりです。

 そして今回も、していただくことばかりでした。

 別れる直前に、母が私に背中を向けながら、「あんたはどこに行っても、うちの子やで」と言ってくれたのが、とても泣けました。


●母の愛は仏の愛の縮図

 母のこの言葉には、まるで仏様の慈悲の片鱗を見た思いでした。

 私は20年近くにわたって、オウム・アレフ教団の外部対応役として社会と接し、一歩外に出れば「人殺し!」「気違い!」「出て行け!」と無数の人々から罵倒され、あらゆる場面で人格を全面否定され続けてきました。

 

 オウムのやったことや、その後の私の無反省ぶりからすれば、あまりにも当然の報いなのですが、私にとっての「日常」とは、多数の人に取り囲まれて人格と存在を全否定されることであり、疑念のまなざしを向けられることであり、それが当たり前でした。

 そんなところに、無条件で私を受け入れてくれた母の言葉が、まるで真っ暗闇の中で見つけた光のように感じられたのです。

 仏様は、たとえ悪事を繰り返し、間違いを犯す人間であっても、温かく見守り、済度しようと慈悲のまなざしを向けていらっしゃる存在だといわれます。

 もちろん、母とて一人の人間ですから、仏様のように大宇宙の全ての衆生を無条件に受け入れることは無理な話です。しかし、私と母との間に形成された「小宇宙」においては、母は間違いなく私に対しては無条件の慈悲に富む仏様の役割を果たしてくれたのです。

 「部分の中に全体が含まれている、部分の中に全体が現れる」という仏教の考えに基づけば、両親は、大宇宙に遍く存在する仏様の慈悲の一つの現れに違いないと感じました。


●オウム事件被害者にも親や子がいた

 すると、やがて、不思議な感覚でしたが、道ですれ違うご老人が、まるで私の両親と重なり合って見えるようになったのです。「このおじいさんにも、このおばあさんにも、私と同じくらいの年の息子さんや娘さんがいて、その幸福や健康を祈っているんだろうな」と。

 また、自分と同年代の人を見ると、「この人にも私の両親と同じくらい年の両親がいて、両親をいたわりつつ生きているのだろうな」と、そして小さな子供を見ると、「かつて自分もこれくらいの年齢だったことがあって、母に手を引いて歩いてもらっていたな」という思いが生じるようになりました。

 つまり、町を歩いている普通の人たちを見渡すと、その一人一人が、まるで自分の大切な家族であるかのような感覚に包まれるようになったのです。

 そんなときに、ふと気づいたのです。こうして普通に町を歩いていて、普通に電車に乗っていて、普通に家でくつろいでいた人たちが、オウムの毒ガスのせいで、麻原の指示した様々な凶行のせいで、ある日突然、大変な事件の被害者になった。この被害者の人たちにも、もちろん大切な親がいて、子供がいて、家族がいた。その親御さん、子供さん、そして家族の人たちは、大切な人が被害にあって、どんなに苦しかっただろう、悲しかっただろう。

 もし私の両親が被害に遭ったら、私はどんなに苦しむだろう。もし私が被害に遭ったら、私の両親はどんなに悲しむだろう。

 それを思ったとき、どうしても感情の揺れを押さえることができなくなりました。

 そして、それ以来、私の脳裏には、お見舞いに行ったときに目の当たりにした、寝たきりの河野澄子さんと、澄子さんを介護する夫の義行さんの姿がしばしば思い浮かぶようになったのです。

 よくよく考えますと、私がこうした思いを抱くようになったきっかけは、内観をしたことにあって、その内観をしたきっかけは、澄子さんが亡くなる4日前にお見舞いに行ったときに、まさに澄子さんが負傷されたお家でMさん(地下鉄サリン被害者の妻で保護司の方)から内観を勧められたからでした。

 被害者にも愛する大切な家族がいたこと、その悲しみや苦しみを決して忘れないでほしい、そういう人を二度と生み出さないでほしい――それが、澄子さんを通じて私が得たメッセージではないだろうかと思わずにはいられませんでした。

 返す返すも、こんなことに今ごろになって気づくとは……という悔悟の念も、また襲ってくるのでした。

                                   (【内観(14)】へ続く)