【内観(11)】から続く〉

 もう実家に帰ることに迷いはありませんでした。

 集中内観を終えて12日後の2009年3月30日、私は大阪の実家のすぐ近くまで行き、まずは実家に電話を入れました。父が出ました。電話の向こうの驚いた様子の父の声は、昔と違って、何だか弱々しく聞こえました。すぐ帰ってこいと言ってくれたので、私は実家の玄関をくぐりました。

 そうするつもりはなかったのですが、20年ぶりに見た年老いた父と母の姿を前にして、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙があふれてきて、思わずその場に土下座をして謝りました。父も母も、「帰ってきてくれただけでええんや」と言いながら、私を両脇から抱え上げて、家に上げてくれました。

 両親ともども「とにかく、よう帰ってきてくれた。帰ってきてくれた」と涙ながらに喜んでくれました。さっそく母は、食事を作って食べさせてくれました。20年ぶりの母の食事が、身体から心にしみ入ってくるように感じました。

 そして、母方の祖母の墓に、墓参りに行きました。私を幼少の頃に大事に育ててくれた祖母です。もちろん内観のときにも、母と父の次に時間をとって思い出す作業をしたのが、この祖母でした。手を合わせながら、ご心配をかけたことを心中でお詫びしました。

 その後、母方の親戚のおばさんの家に行きました。いざ私の姿を見ると、駆け寄って抱きつき、「よう戻ってきてくれた、よう戻ってきてくれた!」と、泣きながら喜んでくれました。おばさんは以前、食料品店を営んでいましたので、私が子供の頃は、よく店の売り物のお菓子を自由に私に選ばせて持っていかせてくれました。内観のときに、そんな「していただいたこと」を思い出したりしました。

 夕方になって、両親と家に戻ってきました。

 夕食は、母のご馳走でした。

 あの気丈な父が、親族一同に電話をかけて「息子が帰ってきた。家族揃って食事したのは20年ぶりや……」と涙声で話していました。

 普段は酒を1杯しか飲まないという父が今日は2杯も飲んでる、と母が言っていました。

 また、父からは、私が出家して以来、母がしきりに泣いていたことや、母が私のために陰膳(不在者の安全や健康を祈って、あたかもその人がいるかのように作って捧げる食事)まで上げてくれていたことを聞かされました。

 こうした話を聞いて、私は両親に多大な苦痛ばかり与えてしまったな……と、申し訳なくなりました。

 その後、深夜の3時頃まで、私の赤ちゃんから高校時代までの姿が家族と一緒に写った大量の写真アルバムを皆で見ながら、昔話に花を咲かせました。父はきちんと整理して私の写真を保管しておいてくれたのです。

 写真の1枚1枚を見ていると、私は本当に両親の世話になってきたんだなと実感させられました。私は、決して一人で立って歩いてきたわけではなかったのです。現に、父親に支えられて立っているよちよち歩きの私の写真もありました。当たり前といえば、あまりに当たり前のことなのですが。

 部屋には、私が帰ってくることを願って、大小様々な種類の蛙(かえる)の置物がたくさん置かれていました。

 その夜は、20年ぶりに実家の風呂に入り、20年ぶりに自分がもともと使っていた部屋のベッドで眠りにつきました。「戻って来られた」という安堵感と、両親への感謝の念に包まれながら……。
                                  (【内観(13)】に続く)