【内観(5)】から続く〉

 

 こうして2008年7月、地下鉄サリン事件被害者の妻で保護司のMさんとの交流が始まったとき、Mさんは私にあることを教えてくださいました。1994年の松本サリン事件で負傷し、14年間にわたって寝たきりの生活を続けてこられた河野澄子さんの容態が危険だというのです。

 前にも記した通り、私が徐々にオウム教団のあり方に疑問を感じ、社会に目を開く大きなきっかけを与えてくださったのは、松本サリン事件被害者の河野義行さんでしたが、その奥様が澄子さんです。

 そこで、ぜひお見舞いに行かせてほしいと私から申し入れたところ、河野義行さんと親交が深いMさんは、早速お見舞いの仲介をしてくださいました。

 私や上祐代表は、長野県松本市内の澄子さんの入院先に、Mさんのご案内を受けて、お見舞いに行きました。2008年8月1日のことでした。初めてのお見舞いでした。

 病室では、澄子さんがベッドの上で横たわっていらっしゃいました。

 義行さんが、澄子さんの耳元に顔を寄せて、「澄子さん、ひかりの輪の上祐さんや広末さんがお見舞いに来てくれましたよ」と声をおかけになっていました。

 澄子さんは、ただ、寝たきりです。

 体を動かすことができない、食事も自分でとれない、意思表示も自由にできない……。こうした状況で、澄子さんは14年間も苦しんでこられたのです。

 私が、1994年の松本サリン事件以降、最初は「事件はでっち上げだ」と否定し、後には「事件には深い意味があった」と自分に言い聞かせ、事件から目を背け、時には自分個人の喜びや苦しみに没入してきたこの14年の長き間にわたって、澄子さんは、ずっとずっと寝たきりの苦しみの中で生きてこられたのです。

 この現実――オウムが、麻原が、サリン事件が生み出したこの現実、そして何より、そうした現実から目を背け、被害者から目を背けて逃げてきたこれまでの自分自身という現実が、今の自分自身の目の前に一気に突きつけられた思いでした。

 そして、私は『ジョニーは戦場へ行った』に登場するジョニーを思い出してしまったのです。寝たきりになって動けなくなり感覚も言葉も失ってしまった人間の存在意義を問い続けたことが、私のオウム入信のきっかけになったことは、私の総括文(こちらのページの「●2,オウム入信の土壌となった哲学的要因」)に書いたとおりです。それなのに、よりによって、自分たちが「ジョニー」を作り出してしまった。しかも、私はそれに対して何もなしえない。この現実をどう解釈したらいいのか。そう思うと、愕然として何も言えなくなりました。

 お見舞いに来たつもりでしたが、言葉の一つも発せられず、立ちつくしているだけでした。
 
 そのわずか4日後の2008年8月5日、澄子さんは14年間の闘病生活を終えて亡くなられました。

 私たちは、結果的に最後のお見舞客になったようです。

 それを聞いた私は、まるで、この世から旅立とうとする澄子さんから、ギリギリ最後の呼び出しを受けたかのように感じてしまいました。もちろん勝手な思いこみ、考え過ぎかもしれません。でも、澄子さんは最後に私に何を伝えたかったのだろうか……そんなことを考えざるをえませんでした。

 誰にでも無条件に愛する家族がいる、大切にしてあげてほしい――。それが澄子さんからの、いや澄子さんを通じての天からのメッセージだったんじゃないか。私が徐々にそう思うようになったのには、以下に述べていくような理由があります。

 というのも、お見舞いの日――つまり澄子さんが亡くなられる4日前――病院からの帰りに、松本市にある河野さんのお宅(とりもなおさず松本サリン事件の現場でもあります)に寄って、河野さんやMさんと一緒に食事をいただいたときのことです。私は、お二人に、ちょうどその前月にまとめ上げたばかりの前記の団体総括文を手渡しました。

 それを受け取られたMさんは、「ここまで反省・総括されているのなら、皆さんで『内観』をしてみたらどうですか?」と勧めてこられたのです。内観をすることによって、より反省・総括が進んでいくでしょう、と。

                                (【内観(7)】に続く)

 

(※この記事の全文の内容および公表については、念のため河野氏のご了承をいただきました。あらためて感謝申し上げます)