書いたのは、かなり前の記事になりますが、備忘録として残します^^ 最新記事にて、こちらの内容を更にブラッシュアップした内容を書いてます。 

 

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僕は月子のパートナーです。

 

僕は、福岡に来た当初、自分の当時の意向には全く添えない心境に陥り、予定していなかった予定が組み込まれ続け、結婚し、今に至ります。

福岡に来たのはもう、4年前になるでしょうか。

 

 

当時の僕は、魂の物語を書き始めてから1年ほどで、僕は今でもそのワークの中には、自分自身のエネルギーが自然に圧倒的に表現されていくことを感じていますが、当時はそんなワークが出来る自分を「特別な人間である」と思っていた節もあり、なんとか、そうしたスピリチュアルなワークのみで生きていきたい!と模索していました。

4年前に福岡に来た頃にも「福岡には2週間くらいいるつもりで、その後はまたどこかに行く〜」と武者修行者の感覚でいたことを覚えています。

しかし僕は、すぐにその思惑を遂行することができなくなりました。
何故なら、精神的にとても不安定になり、福岡から出るどころか、外出もまともな状態ですることが困難なくらい様々な感情の波に飲み込まれていたので。以来、僕は月子と生活を共にしている4年間の中で、度々(今でも)その波に飲まれかけては乗り越え今に至っている、という状況が続いています。

そして今現在多くの活動を、月子自身が僕のいない場で展開し、そこに関わる人々を遠くから傍観者として観続け、一つ、確信めいたものを胸に覚えることとなります。

 

それは

『月子は夜(負の感情)を照らすもの』

なのだろう、ということです。


 


 

福岡に来た当初の僕は、今思い返してもそれはそれは酷いものでした。
今でも、酷い自分と出会うのですから、僕は心底どうしようもない人間であると本当に思います。笑
ですが当時はそんな自分を酷いと思うどころか、素晴らしい人間であると思い続けていたので、鬱憤した感情が表に出ては「これは〜のせいだ。〜が悪いんだ。俺は悪くない。もうこんな状況から離れてやる」と、簡潔に言えばそんなやりとりを、何度繰り返したことでしょうか。笑

今もやっているので、学習能力は、もうヤバす٩( ᐛ )وです。



 

ですが、心身が落ち着いている今に、そんな4年間を冷静に思い返して書かせていただけることがあるとするなら、そんな僕を諦めず、寄り添い続け、一つ一つを乗り越えさせて行ってくれている月子の素晴らしさと類稀なる器の大きさでしょう。多分、僕は本当に厄介な人間です。相当タチが悪い。笑
でも、そんな僕が、少しづつでもまともな人間に向かえつつあるのは、月子のお陰なんだと思います。



 

月子の性質は簡潔に行って

  1. 他者の夜(隠してきた負の感情)を照らすものである
  2. それは無意識的に起こりえるものである
  3. 月子の前では抑えていた自分と出会う=月子と関わるとイヤな自分になっていく、と思い込む人が多い
  4. が、その思い込みは月子と関わることで浮き彫りにされ、結果、自分がやつ当たっていたことに気付く
  5. 全ては、月子が「相手を受け入れ、寄り添い続けること」をし続けることで完遂されるものである
  6. よって、月子への反発心=自分の夜に向き合いたくない抵抗であり八つ当たりである、と心得を持つと良い

である。



 

僕は、月子のパートナーとして関わってからなら4年以上。
そして僕は、今でこそ「本当にすげぇな月子」って思っていますが、出会った当時などは「いやいや、断然俺の方がすげぇぜやっほい!」くらいに思っていたし、間違いなく肯定どころか月子を全否定し、自分は正しいのだと主張し続けてきたのでした。

まあ、率直に行って自分の感情が出てきた状態での自分の主張で一個も正しいものなんてなかったんですけどね。今でもそれやってるんで、感情に向き合うって本当に繊細で難しい作業。

一向に学習しない自分の脳みそには、多分大好きな赤味噌が詰まってるんだな。うん。

言えるうちに言っておく、月子、いつもありがとう!





 

月子のエネルギーは、夜を照らすのだ。
自然と、隠してきた感情が沸き起こり、月子の周りにはちょいちょいなんだコイツすげぇ部分見せてくんなぁ(自分は棚において)と思わざるを得ない人々が集まってくる。

そして結果的に言えば、そんな方々のうちで月子が積極的に関わり続けた人間はみな、自身の強がりに向き合い、スッキリすると同時に「月子すげぇ」ってなってると思う。

いやすげぇんですよ。
人の感情に向き合い続けるって嫌じゃないですか。魂の使命どうこう言ってる方がちょー簡単で楽でキレイだからね。笑

やってるようで、実は誰しも全然やれてないのが感情と向き合うっていう作業。
月子のすげぇのは、そこに飲まれず冷静に向き合い続けることができると言うこと。

直近もですね、夜から始まり朝方8時過ぎまで、僕にお付き合いしてくださっていましたよ。←懲りない僕で本当に申し訳ない


(そっと手を差し伸べる)



 

感情、特に隠してきた負の部分は、みんな無防備で見せたくない。
抵抗もすごいし、反発も強がりも。

幾度となく「そこに触れてくるお前(月子)が悪者なんだ」と、僕であれ誰であれ言われているはずなのに、月子は向き合うんですね。本当に、そこまで人に真摯に関われる人を、僕は知らない。

誰しも、みんなある程度で関わりを諦めると思う。

だって、人の感情は自分のも含めめっちゃめんどくさいでしょう?





 

夜に浮かぶ月明かりのような、月子。

出会った当時は、こんな性質の持ち主だとは僕も本人も気づいてなかったと思う。
けれど、出会った時から“月子”の活動名だった。ちなみに本名は寛子なんだから、これもまさに名前の通りだよね。寛大だよ、器の大きさマジぱねぇ∑(゚Д゚)です。






 

僕は月子のパートナーとして4年。
まだ詳しくは書きませんが、最近では離婚届を書いて渡しておいてるなうという、離婚危機状態(全部僕のせいなんですけど)にもなりました。でも、そこでもまた、僕自身の夜を照らし続けてくれたんですね。すごいよ、本当に。




 

僕は、月子のパートナーとして、どんどんダメな自分できない自分を自覚し、成長も実はすっごいゆっくりで、なんら器用でもなく、アイデンティティが崩壊していく流れに、振り返れば乗り続けています。

でも気付けば、朧げながらにも、その先にいる本当に出会いたかった自分が見えてきているような気がします。

気がします、なんて表現じゃダメですね。間違いなく、見えてきています。





 

多分、僕が一番その部分に言及していますが月子は生きる速度がゆっくりなんですね。
いったい何度「ちょっ、はよっはよっ(゚∀゚)」と様々な部分でせっついてきました。

ですが、もうそう思い始めてから2年が過ぎる頃でしょうか。少しづつ、そんな部分にも、思い感じるものが変わっていきました。

「ああ、もしかすると、これもまた類稀なる才能なのかもしれない」

と。



 

これをまた性質的な側面で言うならば

  1. 月子の生命はゆっくりとマイペースに活動し続ける
  2. 誰がせっつこうとも急げはしない(ここは揺るがない)
  3. が、現代社会において、急ぐのが簡単過ぎる私達には見失ってしまう大事なものが、月子のペースでは見え続けている
  4. 月子に合わせ「ゆっくり生きてみる」と何かが成就することは遅くとも本当に成就したい何かに出会うのは早いのではないか、と

現に僕は、自分一人なら気付くことはなかったであろう大切なものに、どんどん気付けています。



 

で、月子をせっつく人は決まって、僕も含めあらゆることを焦っている人間であることは、統計上100%だぜやっほい*\(^o^)/*


 

それくらいね、完璧に、本人は急いでるつもりでも全くゆっくりで。笑

でもね、これも僕は今では”偉大なる師“として、鏡とし続けています。


 

過去には

「俺は変わり続ける!」→「変わった!すげえぜ俺!」

を繰り返し続けていましたが、今でこそやっと感じられてきたことは

変わるだ変化だといい続けてる人間ほど、側から見たら変わってないよ

ってこと。


 

表面上は、いくらでも取り繕える。多少の表現も。でも根本的には、何も変化が起きていないどころか、どんどん頑なになっているよね。

いつも、そうでした。

僕が”変わるんだ!“と動き出したタイミングは、月子と向き合ってきた時間であり変えられようのない自分自身に近づいていく為の時間となっていたのです。



 

月子には、いつも驚かされる。
僕が、抵抗や強がりの分厚い鎧を着続けることに疲れ、やっとやっとそれを諦め始めた頃に見えてくる自分の本音に月子はずっと以前からそれに気付き続け、尚且つ自分自身で気付けるまで見守り続けてくれていたんですから。

 

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この記事も書いてから数日が経ちました。

いえ10月頃書いたので数ヶ月経ち年を越し、あけましておめでとうございますです皆さま笑

一気に8割を書いて保存して、書き上げる前に色々起こり、寝かせて寝かせて、今に至る。

その間の流れもまた、意味深い。




 

月子すげぇ言いまくりで、ただの惚気記事に思われるかもですが

もう一度言いますが僕のスタート地点は月子を否定するところから始まっていますので、惚気というよりは、懺悔に近いような笑、色々と気付くの遅くてごめんよの謝罪文のような笑、そんな気持ちです。

人を褒めるって、身内ほどできなくなる僕なのです。遠い他人を大したことない関わりの中で褒める行為の方が、当然容易い。

過去にこれほど、自分の奥さんについて、深々と明確に書いた記事はないでしょう。



 

月子は、最も原始的と言いますか、根源的な部分に触れていきます。

感情的な部分ゆえに、人は怖れるし、なにかと魂だなんだと、綺麗で苦しくない外側の言い訳に逃げ出したくなる。

でも、そう言うことじゃないんだよね。

月子は、そういうこと言ってんじゃない。

でもそれって、僕も最近になってようやく多少理解できたくらい、見たくなくて避けてきた部分だから。



 

そして、月子の尊敬すべき部分はそんなめんどうな部分へと、寄り添い続ける大きな器と優しい心”である。

誰がどう月子を否定しようとも、その“人間性(母性?)という一部分の素晴らしさ”がある以上、誰の意見を差し置いてでも、僕は月子を尊重すべきなのだろうと、数々の失敗談から学んだのである。


 

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これは

月子への応援であり、援護であり、取り扱い説明書じゃないですが、少しでも何かの後押しになればと書きました。

僕の理解の、まとめの意味も込めて。


 

感情に蓋をしている方、いつも同じことを繰り返す方、逃げ癖のある方は

是非、会ってみてね♫

見たことない、見たくなかった自分に出会い、きっと癒されるでしょう。