南相馬市、『攻めの医師募集』プロジェクトの提案

医療再建を目指し、今年2月初めの開始を予定

2012年1月16日 小松秀樹(亀田総合病院副院長)

原発事故による医療従事者の離職

 福島県南相馬市が含まれる相双医療圏は、従来、医師の少ない地域でした。ウェルネス二次医療圏データベース(厚労省の2010年の「病院報告」のデータに基づく)によると、2010年の10万人当たりの勤務医数は、全国149人、福島県125人に対し、相双医療圏は87人でした。

 南相馬市の2011年3月11日の人口は7万1559人でしたが、福島第一原発事故の後、居住者が1万人程度まで減少しました。南相馬市の南部、小高区の大半は原発20km圏内の警戒区域に指定され、住民は全員避難しました。この地域の病院・診療所はすべて閉鎖されました。原町区の大半は20-30km圏の屋内退避区域(後の緊急時避難準備区域)に指定されました。その後、西側の山間部は、計画的避難区域に指定され、全住民が避難しました。緊急時避難準備区域では、入院診療が認められなくなり、ほとんどの医療機関で外来診療もストップしました。原発が落ち着くにつれて緊急時避難準備区域に住民が戻りましたが、4万人程度で横ばいになりました。緊急時避難準備区域の指定が解除された後も、2011 年12月段階で、3000人ほどの増加にとどまっています。

 南相馬市全体では、震災前に8病院、38診療所が稼動していましたが、2011年8月23日段階で、2病院、13診療所が閉鎖されました。現在、入院診療を実施しているのは、原町区の3病院と30 km圏外の鹿島区の1病院だけです。震災前の許可病床数は総計で一般病床695床、療養病床276床でしたが、8月12日の実入院患者数は、一般病床188人だけで、居住者数に見合っていません。介護施設の復旧も遅れています。震災前、介護老人福祉施設3施設、介護老人保健施設2施設ありましたが、それぞれ1施設になりました。短期入所施設は10施設あったものが、1施設になりました。20-30 km圏の5病院では常勤医師の57%、常勤看護師の55%、その他の職員の42%が離職しました。

 2011年12月現在、実入院患者数が8月に比べて増えたものの、大きな改善はみられていません。逆に、12月いっぱいで人手不足のために閉鎖される医院があります(MRIC※1『地域医療なくなる不安~南相馬市の現状』を参照)。看護師、事務職員がいなくなり、父と娘の二人の医師が、受付、事務、看護師、薬剤師の仕事を兼務していましたが、限界になりました。

 2011年12月14日、福島県立医大の整形外科医局が、南相馬市立総合病院の要請に応たえて、2012年1月半ばより、整形外科医1人だけですが、派遣を再開するという情報が入りました。この律儀さは称賛に値します。私は、南相馬市立総合病院の支援者として、整形外科医局には深く感謝します。赴任してくれる医師を見つけるのは、容易ではなかったと想像します。福島県立医大の学長が整形外科医なので、福島県からの医師派遣要請に応えざるを得なかったのだと想像します。しかし、多数の医師が、福島県立医大の医局を離れたため、福島県立医大に頼るだけでは、医師を確保できません。そもそも、福島県立医大の学長には、個別の医局の人事に対する影響力は期待できません。とはいえ、その後、福島県立医大から消化器内科医も派遣されることが決まりました。循環器内科も非常勤とはいえ、週3日間派遣されることになりました。福島県立医大には深く感謝します。

坪倉正治医師と高橋亨平南相馬市医師会長

 震災後、長崎大学、諏訪中央病院など、様々なグループの医師たちが、南相馬市に入って地域の医療を支えました。福島県立医大の医師も、南相馬市立総合病院の当直の一部を引き受けています。

 以下、私が良く知っている二人の若い医師の活躍を紹介します。

 坪倉正治医師(29歳)は東京大学出身の6年目の医師です。亀田総合病院で初期研修を受けました。今は東京大学医科学研究所の大学院生で、血液内科医です。2011年4月より相双地区に入り、5月からは南相馬市立総合病院の非常勤医師として、ホールボディーカウンター(WBC)による内部被ばくの検査、小児の尿中セシウム検査、健康診断、放射線被ばくについての健康相談を行ってきました。チェルノブイリ事故後の内部被ばくの状況を調査するために、ウクライナにまで出かけてきました。

 南相馬市にWBCを導入するきっかけを作ったのは、南相馬市医師会の高橋亨平会長です。原発事故後、日本中でWBCを探しました。南相馬市が鳥取県からバス式のWBCを借りましたが、測定限界が高く、低線量の内部被ばくを検出できませんでした。南相馬市が、高性能のキャンベラ社製のWBCを購入しようとしたところ、放射線医学総合研究所の規格に合わないとして、販売を断られました。高橋会長は、持ち前の突進力でこれを突破して購入しました。この装置によって、測定限界値が下がり、信頼性の高いデータが得られるようになりました。高橋会長は、この間の経緯について書いた文章を、以下のように締めくくりました。

 戦いは終わった。あとは後輩達が、正しい科学的な、世界に恥じない、データと治療法を開発できると信じている(MRIC※2『ホールボディ―カウンターとの戦い』を参照)。

 ここに書かれた後輩達とは、南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長、及川友好副院長と坪倉医師たちのことです。11月末、私は、高橋会長を訪問しました。進行がんを患っておられ、数日後に入院されるとのことでした。しかし、ライオンのようなごつい顔を嬉しそうにほころばせて、しっかりしたデータが得られたことを喜ばれていました。孫のような年代の坪倉医師のことを、目を細めて誇らしげに語っていました。

 私は、放射線医学総合研究所の「規格」なるものがどのようなものか承知しませんが、これがなければ、南相馬市にもっと早くキャンベラ社のWBCを導入できたはずです。この「規格」の詳細と、「規格」ができた経緯、「規格」に則った機器の性能、すなわち、測定限界値、データの精度、一人の検査にかかる時間などを検証する必要があります。

 坪倉医師は、キャンベラ社製WBCを用いて、南相馬市の小児の約半数に内部被ばくが認められるものの、ウクライナに比べて、内部被ばくの程度が極めて軽微であることを明らかにしました(※3『内部被曝量、子供と成人で減少幅に差』を参照)。
 
 現時点では、被ばくより放射能トラウマによる健康被害が深刻であると見ています。今後の被ばくによる健康被害を防ぐためには、食品検査と内部被ばくの検査の徹底が不可欠であると訴えています。

原澤慶太郎医師と仮設住宅

 原澤慶太郎医師(31歳)は慶應義塾大学出身の8年目の医師です。亀田総合病院で初期研修を受け、その後も勤務しています。坪倉医師の2年先輩で、旧知の間柄です。もともと外科医でしたが、思うところがあって、震災の1年ほど前に家庭医診療科に専攻を変えました。2011年11月より、亀田総合病院から、南相馬市立総合病院に出向しました。

 原澤医師は、赴任する前に南相馬市の状況を観察して、仮設住宅を担当したいと希望しました。必要な医療サービスが届いていない人たちが多く、家庭医として、貢献できると思ったからです。南相馬市の仮設住宅には12月22日現在、4489人もの被災者が暮らしています。原澤医師は、本格的な冬を前にして、住宅が寒いこと、生活が近接していることから、インフルエンザワクチンと肺炎球菌ワクチンの予防接種が必要だと考えました。当初、市役所は、「仮設住宅の集会所での医療行為を認められない」「市としては協力できない」「開業医の先生方に迷惑がかかる」「医師会は許可しないと思う」などと原澤医師の計画に反対しました。肺炎球菌ワクチンは、日赤が提供してくれました。インフルエンザワクチンは不足していましたが、彼は、自分で動いてワクチンを調達しました。前述の高橋南相馬市医師会長に直談判したところ、医師会長からは、反対どころか、逆に感謝され、激励されました。

 仮設住宅の住民には、ワクチン接種の必要性を説明して回りました。社会福祉協議会、看護師、病院の事務職員などを組織して、予防接種を実現しました。11月26日以後、12月末まで、毎週末、南相馬市内の仮設住宅の集会所で集団接種が行われることになりました。毎回数人の亀田総合病院の医師が、はるばる千葉県からこの活動に参加しました。南相馬市立総合病院のベテラン外科医、根本剛医師が、若い医師の活動に重みを添えました。原澤医師と個人的に知り合った福島県立医大出身の若い医師たちも、入れ替わり立ち替わり、この活動に個人的に参加しました。

 相馬市にも仮設住宅があり、相馬市、南相馬市、浪江町、飯館村の被災者が住んでいます。飯館村からの依頼がきっかけになり、12月11日、12日に相馬市の仮設住宅でも予防接種を行う計画を立てました。ところが、12月6日、相馬市医師会が自分たちで引き受けるとして、強く反対したため、計画が中止になりました。しかし、個人開業の医院を受診した被災者への接種だけでは、仮設住宅で集団接種を実施した場合の接種率にはなりません。相馬市医師会は大きな責任を背負いこみました。これは、相馬市医師会が、地域住民のために、今までにない大きな役割を果たすチャンスです。今後の新たな取り組みと成果を期待します。

 相馬市医師会の反対は、別の展開を生みました。仮設住宅には、震災での体験を引きずって立ち直れていない方、運動不足と偏食で体調を崩されている方が大勢います。原澤医師は、予定をキャンセルしないでそのまま人を集め、南相馬市の既に予防接種に訪問した仮設住宅で、戸別訪問活動を展開しました。前回接種できなかったけれども、接種を希望している住民の掘り起こしと、住民の健康聞き取り調査を敢行しました。この日だけで、早急な医療介入が必要な方が数人見つかりました。

 東日本大震災の1カ月後、石巻で、亀田総合病院の小野沢滋医師が中心になって、被害のひどかった地区(元世帯数1万1271世帯)の全戸調査が、300人のボランティアによって行われました(MRIC『石巻ローラー作戦』を参照)。これにより、何らかの医療を必要とする方が274人見つかりました。原澤医師は、この時の調査票を改変して、新たに調査票を作成しました。これは、今後の、仮設住宅での医療の基礎になります。

 この日の原澤医師の最大の収穫は、看護師からの感謝の言葉だったそうです。このような訪問活動をしたいと思っていても、きっかけがなく、できなかったとのことでした。看護師の中にも、被災者がいます。私が参加した11月26、27日の集団接種で、私と一緒に作業したのは、全住民が避難した小高区に住んでいた看護師でした。小高区の知人たちとおしゃべりをしながら、作業をしていました。

 今後、仮設住宅の医療・介護のための組織が整えられ、住民の健康を守るためのプロジェクトが計画されるはずです。12月11日、亀田総合病院の初期研修医や福島県内の若い医師たちが、生き生きと働いているのを現地で見て、この国はまだ捨てたものではないとうれしく思いました。

インセンティブ

 政府にしても、医局にしても、南相馬市に、むりやり医師を派遣しようとすると、大きな軋轢が生じます。結果として、必要な医師を集めることはできません。集められたとしても、十分に働いてもらえません。しかし、医師のみならず、若い医療従事者の中には、自分が必要とされている地で活躍したいと願っている者が大勢います。2011年11月より、原澤医師と一緒に、亀田総合病院から、大瀬律子作業療法士、山本喜文理学療法士が志願して南相馬市立総合病院に出向しました。他にも10人以上、志願者がいます。

 震災前より、南相馬市の医療には決定的に医師が不足していました。南相馬市立総合病院の許可病床数は、230床でしたが、実際に稼働していたのは、180床でした。震災前の医師数は、常勤医12人、非常勤医9人でした。入院患者100人当たり、常勤医師数6.7人です。これは若い医師からみるとびっくりするほどの少なさです。これで24時間、救急患者を受けると、医師は疲弊します。このまま医師を募集しても、誰も応募しないと思いました。ちなみに入院患者100人当たりの医師数は、国立大学病院53.1人、都道府県立病院23.9人、市町村20.2人、日赤24.6人、厚生連18.4人、国立病院機構13.4人です(国立病院機構以外については、厚労省の2008年の「病院報告」による。国立病院機構については、2009年度患者数、と2010年1月1日現在の職員数より算出)。私の勤務する亀田総合病院は47.0人(2011年4月1日)です。入院患者100人当たりの医師数が6.7人では、提供できる医療の質が違ってきます。せめて20人程度にはする必要があります。

 亀田総合病院からの出向だけでは、到底この地域の医療は再建できません。亀田総合病院も、長期間、支援できるわけではありません。この地域で医療提供サービスを継続するには、どうしても、地域の病院が自立する必要があります。

 実は、日本最大の医師の人事システムである医局制度が、時代に合わなくなっています。医局に所属する医師がすべて、医局に適応できているわけではありません。多くの医師が、医局講座制の中でキャリアを積んでいくことに、閉塞感を持っています。医局に適応できない医師の方が、しばしば、自立的で活動的です。この状況と個々の医師のインセンティブが合わされば、医師を集められる可能性があります。

 医局になじめない医師に、医局と異なる性質の人事システムを示して、医局を離れても、きちんとした卒後教育が受けられること、能力次第で、立派なキャリア形成が可能であること、被災地で活躍することが、キャリア形成のための勲章になることを理解してもらうことができれば、医師を被災地に集めることができます。坪倉医師や原澤医師は、若い医師の新しいロールモデルになりつつあります。彼らの活動が伝説になれば、日本の若い医師の行動が変容し、医療は大きく変わります。

 従来の医学部では、臨床の教室であっても、臨床より基礎研究が一段上だとみなされてきました。多くは生物学的手法を用いた研究でした。医療を進歩させるのに研究が重要であることは間違いありませんが、臨床医にとって、目の前の患者に医療を提供することはもっと重要です。さらに、一人の個人が、基礎研究と臨床を両立させることは不可能です。研究上の業績で臨床現場の地位が決められるとすれば、弊害がでてきます。そもそも、二流以下の研究にはほとんど価値がありません。しかも、臨床の教室で、一流の研究成果を出すところは稀なのです。



※1:地域医療なくなる不安~南相馬市の現状

医療ガバナンス学会 (2011年12月16日 06:00) | コメント(0) | トラックバック(0)

福島県南相馬市原町区在住
わかば塾・番場塾・番場ゼミナール塾長  番場さち子
2011年12月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

家族でかかりつけにしていたホームドクターの奥山医院が、今年一杯で休業すると言う。実しやかに噂にはなっていたが、実際に院長の口から告げられると、また別の感慨があった。

院長に理由を尋ねると、働いてくれる看護師がいないのだと言うことだった。お嬢様で内科医である裕子先生と二人で、受付、事務、看護師、薬剤師、医師の仕事を兼務して再開していたが、限界だということだった。

お年を召した患者はいる。だが、若い者はいない。働く場所はある。だが、働く人はいない。緊急時避難準備区域が解除されても、働き手が帰って来ないのである。
南相馬市では、半分の人口が戻ったと発表した。「それ、本当?」市民は、意外にも冷ややかにその発表を受けとめて聞いている。実際、我が家の前の道路を挟 んだ住宅地には、7軒の新築されたばかりの家が建ち並んでいるが、帰って来ているのは2軒だけである。犬を3匹飼っている家と、奥様が学校勤務をしていて、避難所から職場に通うのが困難なため、仕方なく戻って来た若いご夫婦二組だけである。
3.11の朝に干したであろう、二階の踊り場に洗濯物が干されたままの斜め後ろの出来上がったばかりだった家も、9ヶ月経った今でも、リアルに当時の状態が残されたままである。

我が家から200mほどの、一番近い南相馬市立総合病院は、震災前からいつも混み合っていた。早朝に診察券を出しに行く...とか、半日も待合室ロビーで順番 を待つ...とか、いつもバタバタと走り回っている私には、薬をもらいに行くには時間がかかり過ぎて、論外の病院ではあるが、かかりつけ医が休業するのでは、 背に腹は代えられない。今までの病歴や薬品名を書いてもらい、紹介状を出していただこうと、市立病院を指名した。

ところが、ドクターの答えはNO!である。「市立病院は医師が不足している。これ以上患者が増えては、充分な診療をしてあげることはできないので、新規の患者は紹介してくれるな...」とのことらしい。

さて、私は困った。南相馬は、鉄道も通っていないのである。北は、新地駅が津波で被害を受けたため、仙台へ行くことができない。南は、原子力発電所がある ため、東京、いわきへの電車もない。民間のバスが、一日一往復だけ、南相馬~東京駅へ高速バスを走らせていたが、12/1~3/1まで峠が凍ることを懸念 して運休になってしまった。福島交通のバスは、一日6往復、南相馬~福島駅までを運行していたが、半分の3往復に減らされてしまった。文字通りのこんな陸の孤島で、いよいよ具合が悪くなった時、急を要する病にかかった時、南相馬の住民はどうすれば良いのか?

何年も長い間、自分の体を預けてきた病院がなくなる...南相馬の市民は、放射能や風評被害以外にも、こんな不安も抱えて生活しなければならないのである。



※2 ホールボディーカウンターとの戦い

医療ガバナンス学会 (2011年12月20日 06:00) | コメント(0) | トラックバック(0)

この原稿は高橋亨平先生のブログ(2011/11/14)を転載したものです。
http://www6.ocn.ne.jp/~syunran/page02.html

福島県南相馬市原町中央産婦人科医院
院長 高橋 亨平
2011年12月20日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp

いま思えば極めて重要な意義のある戦いだったと思う。これまでずっと内密にして来たが、やっとデータが公表され、これまでとは全く違う精度の高い正しい データで、思った通りであった。ここから本当の科学的な学問が始まるかと思うと、嬉しくてたまらない。数値も、今までとは違って「0」まで計れるし、しか も短時間で「1~2分」で検査が終了する。検査した子供達の約半数が陽性に出たが、全く心配の無い微量なものであった。子供達は腎機能がいいため思ったよ りも早く排泄されると思うが、このことについても追跡していけば直ぐに明らかにされるだろう。若干、父兄達から心配の声もあるが、やがて安心の声に変わる と思う。

4月に大熊町にある、大野病院の環境医学研究所に、ホールボデイカウンターが3台あることが知人を通して分かった。1台はバス式で、何処かの幼稚園に放 置、2台はコンピュータの部分を修理すれば使えることが分かり、早速、福島県の地域医療課に電話した。その後、何度電話しても、らちが開かず、最後は、大熊町の所有だから町長に聞きなさいと言われ、町長に電話した所、福島県の所有で町は関係ないとの事であった。オフサイトセンターでは、許可が出れば何時でも運ぶとの返事であった。ただ時間を浪費するだけで焦りだけが残った。

このままでは何も前進せずだめだと思い、6月6日、アズマ・メディカルの社長へホールボデイカウンターを依頼した。6月14日、アズマ・メディカル社長、 寺崎稔氏から、「南相馬市で買う」と言ったら、大手メーカーは全て逃げて断られた。勿論、キャンベラジャパン社にも、放医研の規格に合わないからとの理由で断られた。
そこで、社長は、キャンベラジャパンKKへFAXした。「貴社のカタログショートフォームカタログ2~3冊至急お送り下さい」「福島県南相馬市の原町中央 産婦人科、高橋亨平先生の分、至急納入して下さいとの事です。宜しくお願いします」南相馬市で買うと言った時は何も送って来なかったが、直ぐに3部が送ら れてきた。1部は私の所に、社長は「日本に3部しかないカタログの内の1部です」といって置いていった。市でなければOKとなったということであった。放 医研からは、東海村のデータがあれば比較できるから、無くてもいいだろうといわれた。
そこで私が買う事になったが、現金取引しか受け付けないとの事で、私も、文無しだし、寺崎社長に、何とかしてくれと頼んだ。社長は、頼み込んで日立メディ コと交渉し、現金取引となったとの事であった。6月16日、あずまメディカル社長とWBCについて打ち合わせ、日立アロカの、佐々木氏に電話してもらい、 これでキャンベラ社の機器を確保できた。しかし、次のようなメモ書きが添えられていた。

アズマメディカル社長様
本装置は、放医研殿が推奨するWBC仕様が適合しておりません。放医研が対応となりますと、その点が問題となります。つきましては、放医研殿へご確認頂ますよう、宜しくお願い申し上げます。放医研:千葉県千葉市、TELL:043-206-4171

6月22日、私とアズマメディカル社長とで、南相馬市長と合い、ホールボデイカウンターについて逢い説明し、買う事を確約した。6月29日、南相馬市立病院にて、金澤院長、及川副院長、寺崎社長、日立アロカ、佐々木氏、遠藤氏、と打ち合わせを行った。7月6日、私、日立メディコ、佐々木氏と南相馬市長と再 会した。
しかし、又、そこから進展しなくなった。そこで、7月13日、日立メディコ、アロカ、それにキャンベラ東京が加わり、市立病院にて説明をおこなった。その頃、市長も孤立しているのを感じた。市では、市立病院ではあれほど欲しがっているのに無視し、何故、そんなものが必要なのか、私と寺崎社長との関係が疑われた。又、スタートラインに戻ってしまった。

その間、6月28日、鳥取県からバス式のWBCが借りる事が出来、搬入され、7月11日から稼動した。県からも大野病院のWBCがやっと7月11日に搬入され、8月1日から稼動した。しかし、過去の遺物であり、操作にも時間がかかり、データも?安定且つ大雑把なものであった。
市立病院の事務長に話したが、何の事だか分からないし、何て書いたらいいのかも分からないと云われた。そこから、金澤院長、及川副院長に話したが、何とも仕方が無く役所とはこんな物なのだと、半ば諦めに近いものであった。 しかし、市立病院では何とか皆で協力し、何故この機器が必要なのかをくわしく書き申請を市に提出した。市での判断後、議会にかけ無事通った。その後、入札を行い、5社が入札申し込みに参加したとの事であった。何故手に入らない機器を、5社が入札できたのだろうか、疑問であった。しかも、受注生産で、 6カ月かかるはずである。

その後、8月21日、日立アロカが入札を取ったと報告に来た。しかし、それからも、置き場所の決定、補強工事等で時間がかかり、使用できるようになったのは、10月1日からであった。

データは絶対外部に漏れないよう指示した。得られたデータは、思ったとおり、微細に渡り精度の高いものであった。その後、案の定、放医研からデータをよこす様に云われ、福島県からも、データを買うから報告するよう言われた。あちこちから、攻められる南相馬市立病院の先生方を、励ましながら耐え、急遽、中間 報告することが決まった。内密にしながら、朝日新聞1社を選び報道した。1面で報道するはずであったが、後で聞いた事だが、朝日新聞社でももめたそうだ。
約半年に亘る攻防、随分、私も悪者にされたが、何とか責任を果したと、安堵の気持ちでいっぱいである。ただ、ここからが本物の研究が始まれると思うと、この戦いは十分に意義があったと思う、一方、日本という国は何故、この様な鉄のシンジケートばかりがあり、緊急の事でも通らないのだろうと思うと情けなく思 う。

とにかく、又1つ、戦いは終わった。あとは後輩達が、正しい科学的な、世界に恥じない、データと治療法を開発出来ると信じている。


※3 レポート
内部被曝量、子供と成人で減少幅に差
食品出荷制限も有効か、南相馬市立総合病院・支援医師が分析

2011年11月11日 京正裕之(m3.com編集部)


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 11月6日の「現場からの医療改革推進協議会」主催の第6回シンポジウムで、南相馬市立総合病院で支援に当たっている東京大学医科学研究所の医師、坪倉正治氏が、南相馬市で実施している内部被曝量の検査結果について報告した。


南相馬市立総合病院を支援し、内部被曝検査などを担当している、東京大学医科学研究所の坪倉正治氏。

 これまで検査を終えた約2900人の子供のうち、セシウム137が検出されたのは約1割にとどまり、大半は体重1キロ当たり10Bq以下と微量の値だった。さらに子供の方が成人よりも内部被曝量が減少するのが早い傾向にあること、食品の出荷制限規制の奏功が示唆されるという。一方で、検査結果を市民に個別具体的に説明していくことは「医師の診察と同じ」と必要性を語った。

 坪倉氏によると、南相馬市のホールボディカウンターを用いた内部被曝量検査は7月から始まり、これまで約4500人の検査が終わっている。当初は「ホールボディカウンターの使用経験のある医師はゼロ。診療放射線技師もゼロで、どのように検査をすればいいのかが分からず、職員を対象にして練習をした」という。

 子供の検査は8月から開始したが、9月中旬ごろまでに検査を終えた2400人から放射性セシウム137が検出されたのはわずか6人だった。先立って始まった成人の検査よりも、検出頻度が低かったため、「この違いはどういうことなのだろう」と疑問に思ったという。その後、最新型のホールボディカウンターが導入されると、約500人中250人の子どもからセシウム137が検出された。この点について、坪倉氏は「子供から検出された値は、最新の機器は検出限界値が下がり、昔の機器では測れなかった値が、検出された程度のもの」と微量の放射線量を測定できたことによると説明する。

 これまで約2900人の子供の検査で、セシウム137が検出されたのは約1割。体重1キロ当たり、0Bq以上5Bq未満が64人、5Bq~10Bqが135人、10Bq~15Bqが55人、15Bq~20Bqが11人、20Bq~25Bqが4人、30Bq~35Bqが3人、40Bq~45Bqが1人、45Bq~50Bqが1人だった。

 ただ、子供については、「高い値だった子供に対して、2カ月後ぐらいにフォローアップしているが、全員が低下傾向にある。成人に比べると代謝が圧倒的に早い。年齢が低いほど、検出される値も低いということが言える」とした。子供と成人で減少幅に違いがある傾向が、ホールボディカウンターを早期に実施したことで分かった。


最新型のホールボディカウンターを導入したところ、子供からのセシウム137の検出件数は増えたという。

検査2カ月後に数値変化なしの成人も
 これに対して、チェルノブイリ原発事故の5~10年後にベラルーシ、ウクライナ、ロシアで計約11万人に実施されたホールボディカウンターによる内部被曝の検査で検出されたセシウム137の値は、0~50Bqが77%、50~100Bqが13%、100~200Bqが5%、200Bq以上が5%、500Bq以上が0.3%というデータがあり、「ウクライナでホールボディカウンターを導入して検査をしたのが事故から5年後ぐらいで、検査が全く行われてこなかった。かつ、食べ物の制限がなく、自給自足の世界で山の中でキノコを採って食べたりしていた」と指摘。「日本はある程度、出荷制限がかかって、産地を気にして生活できることで差が出ているのではないかと感じている」とし、食品の出荷制限の効果が見られると分析する。

 南相馬市の調査でも、検査から2カ月が経過しても、内部被曝量が減少しない成人がいた。個別に話を聞くと、自分で野菜を採って食べるなどしていたという。放射性物質が付着した野菜を食べ続けた結果、放射性物質が蓄積し続けている可能性があり、坪倉氏は追跡調査をするという。また、「私が7月と9月で2回検査しているが、私が測ると検出されない。最高性能の機器でも検出されない。完全にゼロだと思わないが、4月以降に浜通り(福島県の沿岸地域)で生活している人たちは全員検出限界以下だった」といい、原発事故直後に放射性物質を大量に吸い込んだことが結果に影響している可能性があるという。

 一方で、「僕ら自身が国から派遣されたエージェントのようになっている」と指摘したのが、検査結果の説明方法だ。当初は1家族ずつ説明していたが、件数が増えるとパンク状態になり、書類の通知に変更した。すると、結果を手にして病院を訪れた人に「データを隠している」などと怒鳴られることもあった。この点について「正確な情報が伝わっていないと感じている。(放射線の影響について)突飛な情報に惑わされている人がいるのは確かだし、情報がなくて全く気にしていない人もいる。定期的にフォローすべきことなので、市民に情報を伝えて、みんなでコンセンサスを作っていかなくてはいけないと強く感じる」と述べた。

 出荷制限を気にせず野菜を食べたケースなどを含めて「一人ひとりの話を聞いてアドバイスができれば、内部被曝量は減らせると確信している。(検査後も)定期的にフォローしていくことなので、個別に対応もしていかなくてはいけない。医師が診察をするのとほとんど同じ」とし、継続的かつ個別具体的な対応の必要性を述べた。