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渕正信的な生き方 香山リカのココロの万華鏡
2011年6月28日 提供:毎日新聞社

プロレスファンの私は、和田京平さんという名レフェリーのファンクラブに入っている。先日その集い「京平会」に、これまたベテランレスラーの渕正信選手が参加した。

 渕選手は、現在57歳。20歳でデビューしてから、ずっとジャイアント馬場さんが設立した全日本プロレスという団体で試合をしている。途中、プロレス業界は激変し、とくに馬場さんが亡くなってからは分裂騒動が起きて団体じたいの存続が危ぶまれた時期もあったが、渕選手はその間もずっと居残り続けた。華々しくメインイベントで活躍するタイプではなく、前半戦で若手に胸を貸すことが多いことから、「第一試合の鬼」などと呼ばれている。

 渕選手を会社員にたとえたらどうなるだろう、と私はときどき考える。

 新入社員として老舗企業に入社し、順調に仕事を覚えたものの、業界じたいが変化の波にのみ込まれる。創設者も亡くなり、先輩や同僚は状況を見つつ、転職したり起業を試みたりして次々に去って行った。自分もいまの会社にいても、これ以上、出世する見込みはなさそう、とわかっている。

 しかし、それでも、同じ会社で同じペースで仕事をし続ける……。

 これはおよそ、現代には似つかわしくない生き方だろう。もっと自分を内外にアピールして、チャンスを見つけて軽やかにキャリアチェンジし、年収や地位を上げていくのが“いまどきの賢い働き方”だと思われているからだ。ただ、そういう息もつけない競争の毎日の中で、同僚のこともライバルとしか思えず、心身をすり減らして結局はうつ病などで倒れてしまう“ビジネス戦士”が多いのも事実だ。

 渕選手は、ケガなどで長期にわたって戦線離脱したこともない。同じ団体で同じレベルを維持しながらの安定した試合ぶりは、いまではプロレス業界やファンの誰からも尊敬されている。そしてはじめて間近で見た私服姿の彼は、独特の余裕とおだやかさにあふれ、私のような初対面のファンにも昔からの知人にも、まったく違いなく同じように接してくれた。

 生き馬の目を抜くような生き方、働き方も悪くはない。いつもアンテナを張り巡らせ、成長、向上の機会を逃さない緊張感の高い毎日を送るのもいいだろう。

 でも、と私は言いたいのだ。あわただしく走り回る人たちを横目に、いまいる場所でマイペースを保ち続ける「渕正信的な生き方」はどうですか、と。もちろん私もそうしたいと思っている。

〔都内版〕


http://www.m3.com/news/GENERAL/2011/06/28/138600/?portalId=mailmag&mm=MD110628_XXX&scd=0000336193