ずっと言ってるけど、私は天然石をスピとは関係させて考えてないよ。それはそれで「畑違い」だ。

ネットショップのポリシーどおりの「日常に、ちょっと宝石」それです。

以前もちょっと言ったけど、ウイリアム・モリスが装飾を貴族・富裕層から庶民にと目指したことと意図は近似です。

昭和の頃、電気ポットや炊飯ジャーや食器たちに、装飾プリントをほどこして販売されているのが、多く出回った。ああいうのも「暮らしに愛らしいうるおいを」という販売側の目的があってのことだった。

日常を、そっと飾る。

私が目的とするのが、それ。私がやってるのは天然石アクセだけどね(*^_^*)

 

 

私が今、天然石のアクセをつくるきっかけになったのは、間違いなく、社会人になって2つ目に勤めた宝石店での仕事が大きく関係している。

ちょうど私が入社した頃あたりに、東証二部上場したベリテは、自社工場で定番商品をつくっていて、比較的安価で安定したデイリーなジュエリーを提供できた。

枚方ビオルネにスターティングメンバーで入ったベリテの店舗のひとつ「フォーヴ」は、ターゲット層が「庶民的」で、品ぞろえも比較的安価なものだった。

買い物にきた奥さん方が、自分のお財布からちょっと買える品、仕事帰りの女性がちょっと思い切って変える品。バイトの学生がうふふと買える品。

あのベリテでの仕事を体験してきたおかげで、今の自分の、天然石に対するモチベーションが決定したと言っても過言ではない。

いい企業に勤めさせてもらった。

どの就職先も、いい企業だった。それが私が働いてきた誇りでもある。感謝深く。

 

 

22歳から一般企業で働いて、宝石店に勤めているときに、突如、精神の症状が発症して、急性期だったため仕事を退職し、約1年あまりは働けなかった。そののち事務の仕事について、また販売がしたいと求人雑誌を見て、百貨店の書籍売り場に就職。そこに勤めているときに母が亡くなった。

その当時に住んでいたのが、関目の新築だった公団で、家族で住んでいたのだけれど、3LDKに私ひとりで住んでいるのは無理があり、そのころには失踪をやめて働いていた父のところで住んで仕事に通うことになった。しかし書籍は勤めきれず、住まいの近くの運送会社でアポイント事務の仕事に変わった。

父が、私にまったく何も知らせず、ある日突然「2週間後に外国から新しいお母さんがくる」と言って、まだ母の死からたいして経っていないのにとパニックになり、精神症状が悪化、酷い再発状態になった。高校時代からの女子友が電話で話していた私の異変に気付き、車を借りて女子友の家に連れてくれた

きょうだいに相談して、父とはもう住めない、精神状態がめちゃめちゃになると、当時、きょうだいが住んでいた枚方に、単身として引っ越してくることになったのだった。枚方に来たのが33歳ぐらいの頃だった。運送会社の仕事は辞めた。それからしばらくして、福祉事業所につないでもらうことに。

枚方で一番、大きい精神の福祉事業所を、枚方の障害者家族会から紹介していただいたのだった。そこに通ううち、友人もできた。やがてそこで、ピアサポーターという「仲間同士の助け手」とも言える仕事をいただき、がんばった。各地のピアとの交流も有意義だった。やがてピアの仕事は退院促進事業に移行

精神病院に「外の風」を入れる、病院での取り組みに加わることになった。それもまた、有意義な仕事だった。事業所の仲間の、入院体験も聞けたりした。数年経って、事業所にホームヘルプ事業がおこり、私は枚方にきて間もない頃に、新大阪までホームヘルパーの講習を受講して修了していたので、

事業所でのホームヘルパー登録をさせてもらえることになった。そこでも「ピア」ヘルパーとなっていた。当事者のヘルパーが、当事者宅に赴いて支援をする、利用者サイドにしても自分の体調についてを語りやすい側面があった。やがて社協がしていたガイドヘルプ事業にも登録、短時間のガイドも仕事にした

事業所で9年、お付き合いをしていた彼がいたが、付き合うのが苦痛になっていて、今の夫とおつきあいを始め、夫とはつきあって1年ほどで、結婚した。それが11年前。それ以来、もっぱら主婦だ。天然石ハンドメイドのネットショップを始めたのは、やはり「仕事が好き」だから。自分の体調と相談しつつ

辛いことがたくさんあった、けれども、とても良い人生を生きさせてもらっている。頑張ってきた自負もある。これからも、体調とつきあいながら、「未来」を目指す。今は、ひとりじゃない。夫と一緒にだ。

 

 

天然石の美しさを、「無駄」と思わない社会であれかし。「贅沢」とうけとらない社会であれかし。心安らぐものであれかし。

 

(馬場 能子)