大阪万博がちょうど50年前。千里ニュータウンの開発がなされて、当時としては「おしゃれな」公団が一大建設された時期。母がよく「公団に住みたい」と言っていたという。いくら自宅の構えがでかくとも、たぶん家族四人で父がサラリーマンをして、という「当時のニューファミリー」に憧れたのだろう
しかし、公団は基本的には賃貸であるし、持ち家の方がある程度は安心だったかもしれない、会社と一体化していたからどちらかと言えば気が気ではなかったかも。たちのわるい姑や親戚の小姑とも関わらず、四人暮らしに憧れて。しかし50年を経た今、ニュータウンはもう「古い」時代になった。
でも、会社が倒産して、母の切願が天に通じたかのように、のちにきょうだいが新築のとても広い公団に当選し、そこで車椅子生活でもエレベーターの広くきれいな「公団」に、母は住めて、そして自宅で願い通り亡くなった。私は今、賃貸ではない公団建築の分譲に住んでいる。
まるで、母の望みを受け継ぐようにして。ここに越してきた当初から、母の遺影に語り掛けていたものだ「お母ちゃんの住みたい(もと)公団に、私は暮らしているよ、お母ちゃんが連れてきてくれたんやね」。安い物件だったが室内リフォーム済みのいいうちだ。お母ちゃん、あなたの人生を超えて生きるよ

 

(馬場 能子)