暮しの手帖
編集長


松浦弥太郎さんの

軽くなる生き方


いちばん格好悪い部分を、真っ先にさらけ出す



僕はいつも、情けない自分、恥ずかしい自分を常にオープンにしている。
たとえ会社でだって、失敗の話ばかりしている。


思えば、子どもの頃から、「いばる大人」にだけはなりたくなかった。
10代の終わりから20代にかけて、ほとんどを年上の人とともに過ごした。
そのなかで、僕がグラッときた格好いい人は全員、絶対に、いばらなかった。


「すてきな大人は、いばらない」。
大切な人たちがそう教えてくれた。
だから僕は、いばるようになったら、おしまいだと思っている。
逆に、情けない部分こそ、めいっぱい見せてしまったほうがいい。


恥ずかしい話といって、すでに時効になった若き日のやんちゃを話す大人は多いが、僕の場合はいつもライブ中継だ。


たとえば僕は、時間のあるときはたいてい、昼ごはんは編集部員みんなで、休憩室に集まって食べている。

そのとき、プライベートな話もする。
娘が最近、あんまりしゃべってくれないとか、奥さんと喧嘩をしてモノを投げられ、僕は仕方なく土下座したという格好悪さも自分からどんどん話す。


会社という組織には上下関係があるから、おたがいに「上司の役」
「部下の役」
だけこなしてつきあうこともできる。


でも、それでは人間としてのつながりはもてない。


仕事では厳しく叱ったり、絶対にこれはしてほしいと強く念を押したりするが、そういった仕事とは別の、情けなくて格好悪い面もあるのが、僕という人間なのだ。
相手にしたって、仕事上はおとなしくて真面目だが、プライベートになれば女王様みたいなキャラクターという一面も、もしかしたらあるかもしれない。


それなのに、仕事の顔だけでつきあっていたら、リラックスできないし、いつもガラス越しに話しているようにもどかしい。


なにより、おたがいが心の底から通じ合うことなどできないだろう。
仕事とプライベートは別、と割り切る人もいるかもしれないけれど、どうしても関係し合うのが人間だ。


いざというとき、この人についていくか、黙ってこの人の言うことを聞くか…


それは、仕事ができるとか、立派な上司という観点ではなく、人間としてその人を信じられるかどうかで決まる。


人間である相手をまるごとわかり合ったうえでつきあわないと、本物の信用は築けない。


仕事以外でも、僕はいつでも情けなくて格好悪い、もっといえば異常な自分をさらけ出す。
自分から先に心を開く。


人間には
「正常」と「異常」が
同居しているのが常で、
それが人間らしいということだ。


僕の解釈では、
「異常」とはユーモアだと思う。
もし、自分に好意をもってくれる人がいたら、
僕は隠しもっている異常性を、真っ先にさらけ出す。

最初に、「正常」で体裁がよい80パーセントを少しずつ見せることからつきあいが始まると、だんだん見せるところがなくなっていく。

最後に残っているのが20パーセントの「異常」だと、「ここまで知ったとき、この人に嫌われてしまうかもしれない」

という不安を抱えたまま、つきあうはめになる。


だから僕は、最初に「異常」を思い切って見せてしまうのだ。
それで引いてしまう人とは、それっきりでもかまわないし、えんがなかったと思うしかない。


もっとも、異常性、情けなさ、格好悪さとは、自分一人で思い悩んでいると変になってしまうくらい恥ずかしい部分かもしれないが、みんながもっている面だ。

そして、それこそ人間の「いとしい部分」
なのだと僕は感じる。


いつもいばっている仕事の達人となんて、一緒に働きたくない。


いつもスキがなく完璧な人なんて、一緒にいてもつまらない。
仕事でも人生でも誰かと深くかかわりたいなら、まず自分から、情けなさをさらけ出してしまおう。


「異常」なところを見せ、格好悪い面をオープンにし、まるごとでかかわろう。

そうしてこそ、本物の意味で公私の区別がつく。
仕事の場ではきちんとルールを守りつつ、相手の人間性を尊重することもできると、僕は思う。







ちょっと長くなりましたが、途中で切れませんでした。


又、ご紹介しますね!