毎年、この時期に、この話を書いています。
過去に読んだことがある方、お許しください。
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1995年1月17日 午前5時46分52秒 神戸市灘区
キングコングが、私の家を掴んで揺さぶった。
いや、まじめに、そう思ったのだ。
とっさに、布団の中で身体を丸めた。
テレビやタンス、何百本ものビデオテープが、私めがけて飛んできた。
揺れてる時間が、かなり長く感じた。
揺れが収まり、身体を起こしたものの、まわりに、いろんなものが散乱し、土壁がはがれて、床はザラザラ、素足で歩くには危険な状態だった。
しかも真っ暗で何も見えない。
私の部屋は2階なのだが、1階には、母と姉、4歳の姪が寝ていた。
1階から、まったく声がしない。
「まさか・・、3人とも・・」
私は、姪の名前を叫びながら、手探りで暗い階段を降りた。
1階に降りると、母や姉が、「しっ!静かに!寝てるから」と・・。
なんということだ。あの激しい揺れの中、姪は寝ていたのだ・・。
仏壇、テレビ、タンス、冷蔵庫・・・、すべての立っているモノが、すっ飛んで、倒れていた。
ただ、奇跡的に、母も姉も姪も、かすり傷ひとつ負ってなかった。
しばらくすると、会社の上司から電話がかかってきた。
「大丈夫か?」
「はぁ。家の中がめちゃめちゃなので、片づけたいので、今日、遅刻してもいいですか?」
こんな呑気な話をしていた。
と、いうのは、この時点では、街が火の海になるような大惨事が起きてるとは、思ってもいなかったからだ。
大阪のラジオ局も「大きな地震がありましたねぇ・・」くらいのことしか言ってない。
(すぐ隣の大阪でさえ、神戸の惨事に気づいてなかった。)
また、この時点では、暗かったので、自分の家が酷いことになっていることすら、気付いてなかった。
しばらくすると、義兄(姉の夫)が、東灘区からパジャマ姿で、走ってきた。
義兄の実家(灘区)は、1階部分がペシャンコに潰れたらしい。
義兄のご両親は、2階で寝ていたので、なんとかご無事だったようだ。
姉と姪が、昨晩から我が家の一階に寝ているのを知っているので、ここも、一階が潰れたら・・・と思って、走ってくる間、心配で心配で仕方なかったようだ・・。
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いつまで経っても、日が昇らない。
おかしいな? そう思って、窓を開けると・・・。
いつまでも暗いはずだ。
黒煙のため、太陽が見えないのだ。
私は、外に出てみた。
私の家の少し南に、山手幹線という道路があるのだが、その南側は、火の海だったのだ。
道路沿いに、焼け出された人たちが、パジャマ姿で呆然としていた。
「どこの国だ? どこの国が、どんな爆弾を使ったんだろう?」
「きっと、東京や横浜もやられたんだろうなぁ・。」
「大阪は無事らしいよ。」
知らないオジサンと、こんな会話をした。
戦争が起きたと思ったのだ。
神戸で地震が起きるなんて、考えてもみなかったからだ・・。
突然、一人の男が、私の腕を掴んで、「わぁ~~!」と大きな声を上げ、泣き崩れた。
以前、私が雑貨屋をしていた時、商品を卸してくれていたF君である。
聞けば、F君は、崩れた家から、なんとか這い出したものの、ご両親は「熱い!熱い!」と悲鳴をあげながら、生きたまま焼かれて、亡くなったらしい。
「俺は、親を殺した! おやじもおふくろも助けられなかった!」
そういって泣くF君に、かける言葉はなかった・・。
近くで、車が爆発した。
ガソリンを積んだ車は、火災現場では、爆弾になる・・。
F君の叔母さんが、兵庫区にいると聞いて、私は、車でF君を送ることにした。
おふくろに、近所の惨状を伝えるため、そして、車のキーを取りにいくため、急いで家に戻った。
途中、「おい!手を貸してくれ!」 と、声をかけられたが、申し訳ないが無視した。
駐車場に行くと、私の車は無事だった。
下町は、火の海だったり、倒壊した家で、道がふさがれていたので、兵庫区まで、山の手の道を走った。
阪急電車の線路より上は、家の倒壊もなく、コンビニの前には、行列が出来ていた。
車の中で、冗談を言って、F君を笑わせた。
こんな状況でも・・、親が死んだ直後でも、笑う。
これが、後に復興の力として顕れる、関西人のパワーなのだ。
兵庫区でも、あちこちから火の手が上がっていた。
「叔母さんも焼け死んでいるかも・・」
F君はそう言った・・・。
F君の叔母さんの家の近くで、彼を降ろした。
悪いが、一緒に叔母さんを探している余裕はない。
今頃、灘区の私の家にも、火が迫っているかもしれない。
近所にガソリンスタンドもあるし・・。
無一文になったF君に、2万円と、テレホンカードを渡すと、私は、灘区の家まで急いだ。
道は大渋滞になっていて、家にかえるまで、かなり時間がかかった。
被災地のど真ん中に、年寄りの母を置いて、遠く離れた自分を責めた・・・。
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幸い、家のほうまでは、火は迫ってきてなかった。
午後、バイクに乗り換え、東灘区にある職場に向かった。
道端で、毛布にくるまって震えている老人。
顔から血を流している女の子。
泣いてるオッサン。
途中、見たくないものばかり見た。
職場は、食堂である。
1階には、パンやお菓子を売っている売店もある。
外国なら、こういう状況では、ガラス窓を破られて、商品はからっぽになっていただろう・・。
だが、さすが、日本だ。
店は荒らされてなかった。
食堂の中を点検していると、何人かの若者が、窓から入ってきた。
「1階の売店を開けてくれ」 と・・。
だが、私は、売店のカギを持っていない。
「なら、食堂にある食べ物をわけてくれ」と・・・。
そこで、私は、その後、ずっと後悔し続ける対応をしてしまったのだ・・。
「私の一存では決められない。それはできない。」と・・。
なんと、馬鹿なことを・・。
今から思えば、ポテトサラダとか、かまぼことか、卵とか、食べられるものは、なんでも、分けてあげればよかった。 どうせ、数日後に、すべて捨てることになったのだから・・。
それに、その時の私は、まさか、まさか、日本政府が、何日もの間、我々被災者をほったらかしにするとは、夢にも思っていなかったからだ。
当日中にでも、食糧や生活必要品を、政府が配給してくれるだろう、と思っていたからだ。
若者たちを追いだしておきながら、私は、かまぼこと牛乳を持って、家に帰った。
最低な奴だ、私は・・・。
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家に帰って、改めて、家のあちこちを見てみたら・・・。
私の家は、かなり古い木造の家屋なのだが、つくづく、「昔の大工さんはいい仕事をしている。」と思った。
大黒柱はしっかり立っているのだ。
が、何十年もの間に、何回も、増築、改築していて、その部分の損傷が激しかった。
私の部屋は、後から増築した部分が、本体から離れてようとしていて、壁には大きな亀裂ができていた。
どこの部屋の扉も引き戸も、閉まらなくなった。
家全体が、歪んでしまったようだ。
瓦は、ほとんどが落ちたため、後日、雨が降った時は、家の中に川が出来るほど、雨漏りがした。
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夜・・・。
私の一生のうちで、一番寒くて暗い夜だった。
すぐ近くに小学校があり、近所の焼け出された人たちは、小学校で、もっと寒い夜を過ごしたことだろう・・。
いや、それ以上に、その時点でまだ、倒壊した家屋の下敷きになって、救助を待っている人もいたのだ。その人たちが一番辛かったろう・・・。
デマが飛んだ。
家を失った人たちが、食べ物や女を求めて、襲いに来る、と・・。
私は、バットと、ライフルのモデルガンを抱えて寝た。
余震が起こる度に飛び起きた。
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翌朝、知人が、おにぎりを持って、訪ねてきてくれた。
おにぎりという食べ物が、こんなに美味しいものかと思ったものだ。
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以上は、地震当日の私の行動を簡単に書きました。
腹が立つのは、結局、誰ひとり、救えなかった、いや、救おうとしなかった自分自身。
何万人もの人が苦しんでいる最中、いつもと変わらぬ生活をしていた村山首相や、燃えさかる街を見ながら、自宅前で何時間も迎えの車を待っていた貝原兵庫県知事。
「空母で負傷者を運んでやる」という米軍の申し出を断った神戸市。
その他、もろもろの、役人ども・・・。
テレビで、燃える街の様子を見ながら、思わぬ休暇ができたことを喜んでいた職場の同僚ども・・・。
他にもいろいろ、許せないことが・・・。
続く