ずっと
ブログが更新できず
どうしたのかと 心配してくださった方々も多く
まずは
7月のwanheartのお知らせをらしなくては と。
みなさまから
たくさんのご予約をいただき
ありがとうございます。
いま
やっと
やっと
ここへ 戻ってこれる
戻らなきゃ 戻りたい
と思いつつ
まだ
心が まだ治らず。
wanheartで
この数日みなさまとお会いしていた中で
聞いてくださっていたのに
だんだん話せなくなってしまい
申し訳ありません
みなさまに
あまり良い感情を生み出さないと
思ってしまい
いつも
みなさまに
優しくしてしていただいているので
きっと
私に
なんて言葉をかけたら良いかと
考えてもらっては
いけないと思ってしまい、、、
だけど
まだまだ
なかなか
文字にすることができず
でも
がんばります。
5月にブログアップした
次の日
5月31日
母が亡くなってしまいました。
希望をかけて
リハビリ病院に入院した4日目に。
その日
どうにも時間が間に合わず
面会の18時まで
きっと30分しか会えないとわかっていたのですが
会いにいこう!と。
リハビリ病院は
毎日病室まで 14時から18時までなら
会いに行けることが
入院したかった理由の大きなところ
ショートステイは
1ヶ月に2回
15分のみだったので
泣いてしまう母を見るのが
耐えられなかった。
リハビリ病院ならば
なるべく父と私と
たくさん行くようにがんばれると。
あの日
面会時間が終わる30分前に
滑りこむと
母は
食堂でみなさんと
ご飯を待っていました。
自力でお箸やスプーンを持ち
ご飯を食べれなくなり
どうしても手づかみで食べてしまうようになっていた母
なんと!
リハビリを2日やっただけなのに
左手で
スプーンを持ち
私が魚のフライを
すくいやすいように
小さく刻んだら
上手にすくって
パクパク食べれたので
もう
嬉しくて。
父も私も
歓喜の声をあげて
すごい!すごい!
美味しいね ママすごいじゃん
わぁ
リハビリってすごい
嬉しい嬉しい!
と 拍手して。
もうすぐ
完食というところで
18時になってしまい
面会の時間が終わり
男性の介護士さんから
後は
こちらでやりますから
と。
じゃあママ
明日も来るからね
明日ね
ほんとうは
姪っ子の結婚式だったので
明日は 来れなかった予定でしたが
母には
その明日と言うことは
わからなかったので
明日ねと
毎日くるからね
と言いたくて。
エレベーターに向かい待っていると
エレベーターが
なかなか来なかったので
もう一度
母の姿を見に行ったら
男性の介護士さんが
母のエプロンをなおしてくれていて
良かったぁ
顔色も良くなって
久しぶりに母の笑い顔を見れた
と。
父と帰り道
リハビリがこんなに効果あるなら
家に帰れるよね!
って
私は嬉しくて嬉しくて
それなのに、、
その2時間後に
私が目の当たりにした光景は
母が救命措置をうけていて
激しく心臓マッサージを受けている姿だった。
私と代わり
エプロンを直してくださっていた男性が
汗だくで
心臓マッサージをしていた。
医師から
どうしますか?
1時間
これをやっていますが
この状態です
と
私は
泣き叫び
なんでなんで
なんで
と
母を抱きしめたら
体はもう冷たかった
もう一度
電気ショックを入れますか?と
父は
治療してもらえ!と言いましたが
私は
もうやめてー!!!
かわいそうだから
もう 生きてないよ
もう これ以上は、、、
ただただ
肺に空気を送り
心臓圧迫して
私たちが到着するまでを
待っていた状態だったと
私は理解し
介護士さんに
ありがとうございます
1時間も
大変でした
ありがとうございます
と
泣きながら
私が言うと
医師が
では
いいですね
と。
私がうなづき
心臓マッサージが止まり
私が
その手から
顔を見たときに
ついさっき
エプロン直してくれていた時の光景が
パッと出てきて
嘘だと言ってくれ
いま
これは
ほんとうに現実なのか、、
急性心不全。
この1ヶ月
私に会うと泣いていた母が
3回も
笑ってくれた2時間前が
押し寄せてきて
母のなんの力も入らない首を両手で
抱き抱え
頭を抱きしめて
ママ
ごめんね
ごめんね
って
泣き叫んでいた
泣き叫びすぎていた
そして
その2日後
6月2日
岳にゃん
命を全うしました。
私が大好きなお友達ふたりが
その瞬間に
駆けつけてくれて支えてくれました。
その
数分後
虹が。
次の日の密葬の
母に
私の庭の花をつんで
棺の中へ。
母を見送った次の日に
岳にゃんを
自宅からお空に還しました。
伊東市の虹の丘さん 丁寧に丁寧に 送ってくださいました。
ブログで岳にゃんを
読んでくださり
頑張っていた姿を応援してくださって
ありがたかったです。
母と
岳を
見送った日の空は
青空でした。
毎日
後悔と
毎日
これは 運命だったんだと
母の笑顔を想っては
自分が良いように
意味づけをしてみては
納得する時間もあれば
ごめんね
ごめんね
全ては
私のせいだと
自分を責める時間もあれば
考えないようにしよう
考えたところで
何も変わらないんだからと
逃げている時間もある
どの時間
どの思考も
ただただ
繰り返しては
なにひとつ解決されないのだけど
母を思い
私なりに
一生懸命であったことには
嘘がない
自分を責め
苦しみ続けることは
仕方ないから
受け止めて生きていくしかないのも
真実。
母は
生前
苦しまずに逝きたいと
ずっと言っていた通り
たぶん
死を迎えた時は
瞬間だったのではないかと思いたい。
重度の
認知症ではありましたが
体の痛みや苦しみは
ないように
病院で
手厚く
診てもらえていて
伊東市の
高柳整形外科さんの
デイサービスのみなさま
先生 奥様
看護師さん 理学療法士さん
の素晴らしいチームに
ずっとずっと
守られて
長きに渡り
過ごさせてもらえていました。
感謝という一言では
表現できないぐらいです。
もう一度
大好きな病院と
デイサービスに
戻してあげたかった
叶うことはできなかったですが
母の話しをしてもらえる方たちが
いっぱいいてくれること
この先
私の
支えになると思っています。
そして
母が大好きだった
ふたり。
愛情のかけ方を間違えて
命危なかったところを
私が救い出しましたが
バニラとみーちゃんを
連れて
たくさん歩いていた母を
思い出しながら
ふたりを
これからも
大切に。大切に。
私が引き継いでいけることがある
あんなに母と戦ったことが
いまは
良かったと思えるのだから
時が経つと考え方も変わるものなんだなと。
岳にゃん
最期の最期まで
ずっと穏やかに
日常のみんなの中で
静かに
その時を迎えました。
岳
ほんとうによく
命を全て全て
いま
朝の点滴もなくなり
夜
腕の中にも居なくなり
悲しみと
辛さが押し寄せてきますが
岳に
たくさんの命の強さを教えてもらったからこそ
私も
みんなも
命を全うするまで
精一杯
生きる
生きなきゃいけないと
前を向けるように
努力していかなくては。
長く
書かせていただきましたが
ずっと
話せなくて
まだ
まだ
ですが
これから
前を向けるよう
自分を取り戻していけるよう
過ごし始めていきますね
いつも
みなさま
ほんとうにありがとうございます