3か月ぶりの旧東海道歩き旅23日目のスタートは、JR東海道線東戸塚駅からです。今回の歩き旅を完歩すると、残りはあと1日のところまできました。

 

駅東口を出ると壁に旧東海道までの案内図がありました。駅を出て真っすぐ直進です。

 

    

東戸塚駅は南北に走る谷間にあり、駅を出ると市道を跨ぐデッキがあり、その先にショッピングセンターがありました。そこにはエスカレーターがありましたが、このようなエスタレーターを3基か4基乗りついて上って行くと

 

その先には高層マンション群がありました。

 

しかし本日の天気は「曇り時々雨」で、この時もぽつりぽつりと降っていました。しかしカンカン照りの猛暑日よりましかもしれません。

 

    

マンション群を過ぎるとやっと旧東海道に着きました。丁字路の正面には案内板があり、日本橋方面は左折です。

 

左折すると旧東海道は至極普通の住宅地の道でした。

 

    

9時前に旧東海道を歩き始めて約4分、右手の法面に「品濃一里塚」の標柱がありました。

 

歩いていた時は木が生い茂っていて気が付きませんでしたが後で調べたところ、道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県ではこの一里塚だけであり、昭和41年に県の史跡に指定されています。グーグルアースで見ると緑の塚が残っているのがよくわかります。現在塚は公園になっています。

 

品濃一里塚は、日本橋から数えて9番目の一里塚で保土谷宿と戸塚宿の間に位置していて、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に西の塚は品濃村内に位置し、西の塚には榎が植えられていました。

 

    

一里塚から2分弱歩くと、右手の竹やぶの中に「庚申塔」がポツンと立っていましたが、普通なら気づかないような場所でした。

 

    

庚申塔から少し歩くと、旧東海道の道幅は広くなり歩道も整備されている緩やかな上り坂になりましたが、その歩道の中に「焼餅坂」と書かれた標柱が立っていました。「焼餅坂」は当時の品濃村と平戸村の境にあり、約160mの坂道でした。坂の傍らの茶店で焼餅を売っていたので「焼餅坂」と名付けられたといいます。別名「牡丹餅坂」とも呼ばれているそうです。戸塚を描いた浮世絵には山坂や焼餅の絵がしばしば登場しています。

 

「焼餅坂」を上りきると「境木地蔵尊前交差点」に着き右折しました。

 

    

右折した交差点脇には、「戸塚宿周辺散策案内図」と戸塚宿の説明がありました。

 

戸塚宿の成立は、慶長9年(1604)で隣宿である藤沢、保土谷から3年後でした。日本橋から数えて5番目の宿場町で、日本橋から10里半の距離で、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿場地として最適であり、さらに鎌倉への道、大山参詣の道の分岐の宿として大いに賑わっていました。

宿内の人口は2900人余り、家数は613軒、本陣は2,脇本陣は3,旅籠は75軒と東海道では10番目に旅籠の多い宿場で、2つの見付に挟まれた約2.3kmの長さでした。

 

    

案内図の十数メートル先に「境木立場跡」の説明板がありました。

境木の立場は権太坂、焼餅坂、信濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で西に富士山、東に江戸湾を望む眺望がすばらしく、旅人が必ず足を止める場所でした。境木の茶屋の中でも特に若林家には、明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があり、参勤交代の大名までもが利用したと伝えられています。

 

道路の反対側には、「東海道保土谷宿」側面に「武相国境之木」と書かれた標柱が立っていて、柱の下の円形の台には東海道の宿場町の名も刻まれていました。このモニュメントは平成17年に設置されました。

ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の地名の由来になったと伝えられます。またケヤキの大木があったとの説もあります。

 

    

「武相国境之木」の標柱の後ろに「境木地蔵尊」がありましたが、その入口階段横に立て看板があり「鐘楼 野毛山の時の鐘」についての説明がありました。

以前地蔵堂の後ろに鐘楼がありましたが、その境木の鐘はの野毛山に移され「野毛山の鐘」として明治元年より大正12年9月1日まで親しまれ、同日の関東大震災まで横浜市民に時を知らせてくれたそうです。

 

階段の奥に見える地蔵堂が見えますが、ここに祀られている地蔵には次のような伝承があります。

いつの頃か鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕に立ち、「俺は江戸の方に行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師たちが江戸に運ぶ途中この境木で動かなくなりました。そこで村人たちは地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁盛したそうです。

 

    

地蔵堂から2、3分歩き、横浜市立境木中学校の前で左折しました。左折してしばらくすると電柱の住居表示に「権太坂」の表示が見えてきました。正月の箱根駅伝で有名な権太坂ですが当然この旧道を走るのではなく、この東を通る現代の国道1号線を走ります。

 

    

電柱から1分少々すると下り坂になりました。ここが有名な権太坂かと思いましたが、すぐに平らな道になりました。どうやらここではなさそうでした。

 

    

しばらく見晴らしの良い平らな尾根道を歩いていると

 

横浜市立権太坂小学校の手前辺りからかなり急な下り坂になってきました。

 

小学校の前にある「権太坂」の説明板によりますと、

かっては今より勾配がきつい相当な急坂で、江戸から上方に上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。松並木が続く景色も良かったため多くの浮世絵にも描かれています。権太坂にはもともと人家はほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修され宅地化が進むまで往時の街道の面影を残していたそうです。

 

「権太坂」の名前の由来

 

その1 「老人の返事」説

 ある時、旅人がこの坂で、近くにいたお年寄りに坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思いこみ「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったという説

その2 「本当は権左坂」設

 昔、権左衛門という人が代官の指図により拓いてできた坂を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつの間にか「権太坂」になったという説

 

    

さらに少し下ると県立光陵高校の敷地の角に「権太坂」と刻まれた石碑がありました。

 

    

石碑から1分強下ると、「狩場IC」と「新保土谷IC」を結ぶ高速道路を跨ぐ橋に着きましたが、権太坂はまだまだ続きました。

 

    

高速道路を渡り1分強下ると右手の赤い鳥居の奥に大きな石碑と小さな祠があり、祠の中に道祖信が祀られています。石碑にはかなり年季の入ったもので「東海道権太坂 改修記念碑」と刻まれていました。この辺りは当時「一番坂」と呼ばれていたようで、江戸から上方に向かう旅人が初めて出会う急坂であることからそう呼ばれていたのでしょうか。

 

記念碑から1分ほどで権太坂の下り坂は終わり、丁字路を左折しました。

 

    

丁字路を左折してすぐ左、植え込みの後ろの窪地に水準点がありましたが、標高20.3mでした。坂の上部の標高が約70mですので道程約700mとして平均傾斜角7%の急坂でした。

 

つづく