平塚駅前の交差点から約10分ほど歩くと、蔵屋敷バス停の横に「馬入の大銀杏と神明さん」に関する説明看板がありました。それによりますと、

馬入村の鎮守であった神明社は、以前東海道に面したこの地域にあり、神明社の境内から道路に面して幹回り五抱え(直径3m)もの大銀杏がありました。江戸時代からこの地域を見守ってきたこの巨木は、昭和20年7月16日の平塚空襲で黒焦げになりながらも、幹回りから枝を伸ばし生き残っていましたが、国道1号線の拡幅工事のために切り倒されてしまいました。 当時大銀杏の下には消防小屋がありましたが、今はそこに消防団第5分団の庁舎が建っています。

 

    

大銀杏の説明板の直ぐ先の国道120号線との交差点を渡り、1、2分歩くと、「馬入一里塚跡」の石碑がありました。江戸から数えて15番目の一里塚で、東海道を挟んで南北に一つずつの塚がありました。文化3年(1806)に出版された「東海道文間延絵図」には、北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。

 

一里塚跡の直ぐ先の「馬入交差点」で旧東海道は国道1号線に合流し、さらに2、3分歩くと、前方に「相模川」に架かる「馬入橋」が見えてきました。

 

    

この「工業団地入口交差点」から先には歩道がなく、しばらく道路の擁壁下の道を歩きましたが、その突き当りに「馬入橋」の登る斜路があり、その手前角に立つ石碑には、「陸軍架橋記念碑」と刻まれていました。

大正12年9月1日に発生した関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶したため、地元の人達によって渡舟が運行されたものの、豪雨等でしばしば中断していました。そこで9月17日、豊橋の陸軍第15師団所属工兵大隊と、京都の第16師団所属工兵大隊が急遽派遣され、架橋工事が行われました。橋の全長450メートルの内、平塚側の300メートルを第16師団が、茅ヶ崎側を第15師団が担当し、10月3日に完成したと案内されています。それを記念して地元有志が第15師団を讃え建立したものだそうです。しかし本当にこんなに短期間で完成させたのでしょうか。

 

    

「馬入橋」にはゆったりとした歩道が整備されていて、海側を見るとちょうど東海道本線の電車が通り過ぎました。

 

「馬入橋」を渡り終えると、茅ヶ崎市に入りました。

 

茅ヶ崎市に入ってから約6分で「産業道路入口交差点」に着きました。相変わらず国道1号線は混んでいます。

 

    

交差点を渡るとすぐ、「信隆寺」の長い塀が続き、

 

山門の前に「南無妙法蓮華経」と刻まれた「髭題目」が立っていました。

 

「信隆寺」から5、6分歩くと、「新湘南バイパス」の高架があり、

 

    

高架をくぐり過ぎると、「小出川」に架かる「下町屋橋」がありました。

 

橋を渡ると橋のたもとに「国指定史跡 旧相模川橋脚」のモニュメントがありました。

旧相模川橋脚は、大正12年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9年(1198)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15年に国の史跡に指定されました。

また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります。ここにある橋脚は実物を忠実に再現したレプリカです。

なお、橋脚の位置は、現在流れている相模川の流路から東側へ約2.5キロメートルの位置にありました。この橋が確認されたことにより、中世における相模川は現在よりかなり東方を流れていて、氾濫や地震による流路の変遷を経て現位置へ移動したものと推定されています。

 

    

「橋脚のモニュメント」から約3分歩くと、「神明神社」がありました。

 

境内に入ってすぐ左手、塀の蔭に「清明井戸」と刻まれた石碑がありました。

当地の古老が伝えるところによりますと、「神明神社」の境内には、平安時代の陰陽師「安部晴明」が東国に下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていました。

そこで名付けて「清明井戸」と称されるようになりました。

 

「神明神社」から約4分、国道1号線での距離ですが、日本橋まで後60kmの地点まで来ました。このペースなら後3日の行程で日本橋にたどり着けそうです。

 

    

60km地点の50mほど先にある「鳥井戸橋交差点」のすぐ先に「千ノ川」に架かる「鳥井戸橋」がありますが、その橋のたもとに「南湖の左富士之碑」と説明板が立っていました。

 

    

安藤広重が描いた「南湖の松原左富士」では、東海道の鳥井戸橋を渡って下町屋の家並みの見える場所で、松の左手に富士山が描かれています。東海道のうち左手に富士山が見える場所は2か所あり、もう一つは吉原宿にあります。

 

「左富士の碑」の反対側に「鶴嶺八幡宮」の赤い鳥居がありますが、社殿はこの参道の先約900mの所にあります。

 

    

鳥居の右手にある駐車場に下り、左に進んでいくとポツンと「弁慶塚」がありました。なぜこのようなところに「弁慶塚」があるのかというと、

武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡き妻の冥福を願い相模川に橋を架けました。その落成式には源頼朝も参列し盛大にとり行われました。頼朝はその帰路、「鶴嶺幡宮」付近に差しかかった時、義経・行家ら一族の亡霊が現れ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年1月に亡くなりました。後年里人たちは義経一族の霊を慰めるため、ここに「弁慶塚」を造ったと伝えられています。

 

    

「鳥井戸橋」から2分弱歩くと、「十間坂歩道橋」がありましたが、この歩道橋少し変わっていて、歩道橋の階段を下りると歩道ではなく「第六天神社」の境内に下りました。歩道が狭いためこうなってしまったのでしょうか。

 

    

この「第六天神社」には「パワースポット」と呼ばれる黒松の木があるという案内板がありましたので見に行きました。

 

    

社殿の裏にその黒松はありました。樹齢200有余年と推定されるこの黒松は「御神木」として大切に守られてきましたが、昭和20年代に落雷にあい中程より折損してしまいました。その身をもって落雷から御神殿を守ってくださったと伝えられています。

 

    

                    当時の黒松

「第六天神社」から約10分、東横イン前の歩道の真ん中に「黒松の切り株」が残されていました。

一号線沿いにある松並木は江戸時代に形成されたもので、このクロマツも樹齢は200年以上、高さ20m、太さ2・5mで、茅ヶ崎市内で植樹されたものの中では一番大きい松でした。しかし、2009年に街路樹診断で幹が空洞化していることが分かり、腐朽のために伐採を余儀なくされました。その切り口部分には銘板が設置されていますが、残念ながら風化して判読できませんでした。

 

黒松の切り株から2分弱で「茅ヶ崎駅前交差点」に着きました。旧東海道はこのまま直進ですが本日の行程はここまでとし、交差点を右折して茅ヶ崎駅に向かいました。

 

    

交差点の手前角に小さな芝生広場があり、そこに「純水館茅ケ崎製糸所跡」の説明看板がありました。それによりますと、

「純水館茅ケ崎製糸所」は隣のヤマダ電機茅ケ崎店を中心とした敷地約12000坪、従業員数約350人の大工場として、小山房全により大正6年に開業しましたが、昭和年に廃業しています。

 

時刻はちょうど午後4時。8時間で約25km強歩きました。さすがに疲れましたが、日本橋まで60kmを切るところまでたどり着きました。

 

旧東海道歩き旅21日目完歩です。