「平塚宿上方見附跡」から約4分、豊栄ハウジングの青い幟が立つ交差点を左折し1、2分歩くと公園がありましたが、

 

    

その一角に「平塚の碑」と刻まれたちいさな石碑が立っていました。

江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」の中に、里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の3代孫、高見王の娘政子が、東国への旅の途中天安元年(857)この地で亡くなり、棺はここに埋葬され塚が築かれました。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた」という一節があります。これが平塚という地名の起こりになったということです。

 

    

「平塚の碑」がある公園の隣にある「要法寺」です。

「要法寺」は、執権北條泰時の二男と伝えられる平塚左衛門尉泰知の邸宅(当地)でしたが、日蓮上人が弘安5年(1282)止宿し説法され、平塚泰知(松雲院日慈上人)は邸宅を日蓮上人に寄進し、日蓮上人を開山として創建したといいます。

 

        

「要法寺」から旧東海道に戻ると、シャッターに広重の「東海道五十三次の内 平塚縄手道」が描かれた平塚市消防団第一分団の建物があり、その角に「平塚宿西組問屋場の蹟」と刻まれた石柱が立っていました。

平塚宿では初めここに問屋場が置かれましたが、寛永12年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増したため、「平塚宿」は、隣接の「八幡新宿」の「平塚宿」への加宿を願い出て、慶安4年(1651)その目的を達しました。「八幡新宿」は「平塚宿」の加宿となり、新たに問屋場を新設しました。これにより従来の問屋場を「西組問屋場」といい、「八幡新宿」の経営する問屋場を「東組問屋場」と呼ぶようになりました。この両問屋場は十日目交代で執務したそうです。

 

    

「問屋場跡」から約2分、神奈川銀行の店先に「平塚宿本陣旧蹟碑」と刻まれた記念碑がありました。

平塚宿の本陣は、代々加藤七郎兵衛と称し、この地に南面して建っていました。間口約30m、奥行き約68m、東に寄って門と玄関があり、天皇や将軍大名などの御座所は上段の間でした。記録によると14代将軍家茂や明治天皇が小休されています。

 

    

本陣跡の1、2分先、南側歩道のガードレール脇に「平塚宿東組問屋場」の石柱がありました。西仲町にある西組問屋場と対になる問屋場です。

 

    

東組問屋場の斜め前に「平塚宿高札場の蹟」の石柱がありました。高札の大きさは、長さ2間半(約5m)、横1間(約1.8m)、高さ1丈1尺(約3m)でした。

 

    

高札場跡の1分ほど先に「平塚宿脇本陣跡」の石柱がありました。

平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801~1803)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(1830~1844)には二十四軒町の北側のこの地で山本安兵衛が営んでいました。

 

    

脇本陣跡から約3分ほど歩くと左手にクスノキの大木がありました。このクスノキは、明治29年3月、当時の神奈川県知事が県下の学校にクスノキの種を配り、そのうちの一個がこの地(元平塚小学校跡地)で発芽し成長してこの様な巨木になったものです。

 

    

その50m程先「ひらつか市民活動センター」の一角に「江戸見附跡」がありました。見附の規模は、長さ約3.6メートル、幅約1.6メートル、高さ約1.6mの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、上部には竹矢来が組まれていました。東海道に対して 直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。この石組は再現されたものです。

 

    

「江戸見附跡」の先にある「プラザロード」を渡り、一つ目の角の右折し、昼間というのに夜の歓楽街の雰囲気を感じさせる通りを歩き、3つ目の角を左折して少し進むと、左手に小さな広場がありました。その奥の滑り台の蔭に「番町皿屋敷 お菊塚」がありました。

「番町皿屋敷」の主人公「お菊」は、平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習いのため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、家宝の皿を失くしてしまったことを咎められ手打ちにされてしまい、その後怪談「番町皿屋敷」の素材になりました。

 

    

「お菊塚」から北に20mほど行くと「紅谷パールロード」と呼ばれる繁華街が東西に延びていました。ここは有名な「平塚七夕まつり」の会場となるところで、多くの七夕飾りで埋め尽くされます。

 

「紅谷パールロード」から2ブロック北に歩くと、旧東海道に戻りましたが、この道路にも七夕飾りが並びます。

 

    

平塚駅前通りの一つ手前の路地の角に「八幡大門通り」と刻まれた石柱が立っていました。

 

そこから北側を見ると、通りの300mほど奥に「平塚八幡宮」の赤い鳥居が見えました。「八幡大門通り」は平塚八幡宮から旧東海道までの表参道を指しますが、大正中期までは平塚の中心地でした。

 

石柱の50m程先で「平塚駅前交差点」に着きました。JR平追加駅は交差点の右側すぐのところにあります。

 

ここで時刻は午後2時20分になりました。すでに20km以上歩いていて少し疲れましたが、まだ時間が早いので、相方にも相談し次の茅ヶ崎駅まで頑張ることにしました。

 

つづく