「井上蒲鉾店」での買い物を終え、旧東海道の旧道を約1分ほど歩くと先ほど分かれた国道1号線にまた合流しました。

 

その合流地点には、「南組問屋場跡」がありました。問屋場とは、幕府からの書状の継立や、参勤交代の大名行列の際に周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る場所でしたが、大磯宿には南組と北組の2か所にありました。

 

    

同じ場所に「同志社大学創立者新島譲終焉の地」と刻まれた石碑も立っていました。多くの困難を克服して明治8年に同志社英学校を設立し、その後宿願であった同志社大学設立を企図して東奔西走する中病にかかり、明治23年療養先のここ大磯の地「百足屋旅館」で志半ばにして47歳の若さで亡くなりました。

 

    

国道1号線との合流地点の右に入る路地の入口に「大磯照ケ埼海水浴場」と刻まれた石柱が立っていて、その路地の先には西湘バイパスと相模湾が見えていました。

 

合流地点の直ぐ先左手に老舗風の「新杵」というお店がありました。島崎藤村や吉田茂が贔屓にしたという老舗和菓子店で明治24年創業の老舗です。創業時すでにあったこの建物を譲り受け営業したそうで明治初期の建築らしいです。大磯には結構このような老舗店舗が多いようです。

 

さらに約1分ほど歩くと、右手に「大内館」という名の旅館がありました。和洋折衷のようなデザインの建物です。

この旅館は、元脇本陣跡地に明治31年に創業したもので、以来百余年、大磯を訪れる多くの避暑客や文人墨客に愛されてきました。島崎藤村、大塚楠緒子との縁も深く、平成8年に近代和風の3階建てに全面改築されました。

 

    

「大内館」の50~60mほど先左手の中南信用金庫の店先に、「大磯小学校発祥の地」と刻まれた石柱が立っていて、側面には「尾上本陣跡」と刻まれていました。

大磯宿には66軒の旅籠と「尾上」「小島」「石井」の3軒の本陣がありました。石井本陣は先ほど見た「大内館」辺りにあったようです。

 

    

「尾上本陣跡」から50~60mほど先に「小島本陣跡」がありました。この本陣については資料が残っているらしく、

 

間取り図もありました。建坪246坪の大きさでした。

 

    

「小島本陣跡」から50mほど先の駐車場に「北組問屋場跡」がありました。大磯宿にあった2つの問屋場のうちの一つです。

 

    

「北組問屋場跡」の斜め前にある「秋葉神社」横の路地に面し「虎御石」の説明板がありました。

 

その路地を20mほど行くと「延台寺」がありますが、

 

    

境内の「法虎庵曽我堂」に安置されている「虎御石」と呼ばれる石の謂れは、

 

鎌倉時代、大磯の湘南平の麓に山下長者と呼ばれる方が住んでおられました。子供に恵まれなかったので信仰する虎池弁財天に願をかけたところ、夢枕に弁天様が立たれ、目が覚めてみると枕元に小さな石があったそうです。この石を弁天様のお告げとして大切に仏間に安置してお経を上げていると、安元元年(1175年)正月、虎の日、虎の刻、玉のような女の子を授かりました。長者はこの子に弁天様と生まれた日にちなみ、「虎」と名付けました。
 不思議な事に、虎女誕生のもととなった石は虎女とともに大きくなり、「生きている石」安産子授けの御霊石として崇められ、屋敷の中に祠を作って奉られました。また、虎女こそ、後に舞の名手「虎御前」となるのです。

 

 

延台寺」から国道1号線に戻り、6、7分歩くと、「三沢橋東側交差点」で旧東海道は国道1号線から分かれ、左の道に入って行きました。

 

しばらくすると、松並木の静かな道が現れました。

 

    

国道から分かれて約3分、松並木の左手に「江戸見附跡」がありました。「上方見附跡」からここまで約1.3kmの長さでした。

 

「江戸見附跡」から約2分、前方にJR東海道本線の地下道の入口が現れました。旧東海道はこの地下道を通り直進しました。

 

    

地下道を出るとほどなく、左手に石碑が立っていました。石碑の文字は風化してよく判読できませんでしたが、案内板によると、

昭和12年大磯小学校第2代校長朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑を大磯八景のそれぞれの位置に建立しました。「小淘綾の晴嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」。「鴫立沢の秋月」、「照ケ埼の帰帆」、「富士山の暮雪」の7基が残されていますが、この石碑はそのうちの一つ「化粧坂の夜雨」です。

 ”雨の夜は 静けなりけり 化粧坂 松の雫の音はかりして”

と刻まれているようです。

 

 石碑の20mほど先左手に安藤広重が描いた「東海道五十三次之内 大磯虎の雨」の看板絵がありました。

 

     

「広重の浮世絵」から約1分、左手に「化粧坂の一里塚跡」がありました。江戸から数えて16番目の一里塚です。高さ3mで、海側の塚上には榎が、山側には「せんだん」が植えられていました。

 

さえらに約1分ほど歩くろ、右手に「化粧井戸」と呼ばれる井戸がありました。

 

    

説明板の横を10mほど入るとその井戸はありました。

伝説によりますと、鎌倉時代大磯の中心はこの辺りにありました。当時の大磯の代表的な女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なにこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれています。

 

    

「化粧井戸」を過ぎ、左手に水車のある蕎麦屋さんを見る辺りで、旧東海道は国道1号線に合流して、松並木も途切れてしまいました。

 

      

国道1号線に合流してから3分強「高来神社入口交差点」の左手に「高来神社」の鳥居があり、参道が高麗山の麓まで続いていました。「高来神社」は、高句麗からの渡来人に由来するといわれていて、江戸時代までは高麗寺に属し、明治元年の神仏分離によって高来神社となり、高麗寺は廃寺となりました。

 

    

「高来神社」の鳥居から約3分、右手に「善福寺」がありました。

関東六老僧の一人、平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)が創建した寺で、

 

寺に安置される「木造伝了源座像」は平成4年6月国指定重要文化財に指定されました。

 

「善福寺」から約1分、「花水川」に架かる「花水橋」が見えてきました。この橋を渡るとそろそろ平塚市です。

 

橋の上からは、相模の国のシンボル「大山」の雄姿が見えました。

 

「花水川」の流れです。

 

    

橋を渡って最初の交差点の左向うの角に、ポケットパークがありましたので行ってみると、そこは「平成の一里塚」と呼ばれる広場でした。

江戸時代、旅人たちの道しるべとなった一里塚には大木が植えられ、その木陰は旅人たちの格好の休憩場所になっていました。そんな一里塚を現代に蘇らそうとして造られたのがこの「平成の一里塚」です。東海道の新しい道しるべとして、また歩行者の休憩場所としてこの地に整備されたものです。

 

「平成の一里塚」から4、5分歩くと、平塚市に入りました。ここで旧東海道は片側3車線の国道1号線から右に分かれ、片側2車線の広い道路になりました。

 

    

その交差点の角に「東海道平塚宿」と刻まれた大きな石碑と、「東海道平塚宿京方見附之跡」と書かれた木柱が立っていました。ようやく平塚宿に着きました。

 

つづく