旧吉田茂邸跡から再び日本橋方向へ歩くこと約1分強、「切通橋交差点」の直ぐ先に

 

    

血洗川」という珍しい名前の川が流れていましたので調べたところ、

「血洗川」の近くの切通しの岩窟中に行基作と伝えられる地蔵がありました。(現在は大磯町国府本郷の西長院にあり「身代わり地蔵」と呼ばれている)。縁起によれば、源頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した際狼藉をはたらいた者がおり、梶原景時の子悪太郎景義が疑いを掛けられました。この地蔵に帰依していた悪太郎はお参りに来た際に畠山重忠によって討たれましたが、悪太郎の身体には傷はなく、代わりにこの地蔵が血を流し、その腕も刀傷を受けたかのようでした。その時に地蔵が流した血を洗ったことにより、この名がついたと言われています。ちなみに「身代わり地蔵」は日本各地にあるようです。

 

    

「血洗川」から3、4分歩くと、左に入る路地の入口に「西国三十三所巡禮講供羪」と刻まれた仏塔が立っていました。西国三十三所霊場を33回巡礼した記念に建てられたものだそうです。

 

    

さらに約3分歩くと、右手に「八坂神社」に鳥居があり、その奥に社殿が見えました。

 

旧吉田茂邸跡から約15分、国道1号線に中央分離帯ができ、街並みに緑が多くなってきました。

 

    

道路の中央分離帯には松の大木が並び、右手は大規模公園整備の工事中でした。

 

この辺り国道1号線の南側は、明治の元勲達の別邸が建ち並んでいた地区で、西から「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」、「旧滄浪閣(旧伊藤博文別邸・旧李王家別邸)」、マンションを挟んで、「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」、「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」となっています。

現在、この地区を「明治記念大磯邸園」として整備中です。

 

国道の反対側には「宇賀神社」の赤い鳥居が見えました。

 

国道1号線沿線ながら、さすが落ち着いた雰囲気の街並みです。

 

途中松の切り株が保存されていました。傍の看板の説明によれば、

この黒松は、樹齢200年余りの老木でしたが、平成6年に松くい虫の害で枯れてしまいました。写真を撮った時には気づきませんでしたが、年輪にその時々に起きた出来事が記され表面をコーティングして保存してあるそうです。

 

    

切り株の30~40m程先に道標があり、海岸線に向かって「こゆるぎの浜0.2km」と書かれていて、その道標が示す先には海岸へ向かう未舗装の路地がありました。「こゆるぎの浜」は明治記念大磯邸園の裏にある浜辺で、漫画「よつばと!」のモデルとして知られる石拾いスポットだそうです。

「ゆるぎ」とは波の動揺をあらわし、かっては余呂伎(よろき)、余綾(よろぎ)と書かれ、今の大磯町、二宮町は、相模国余綾郡と呼ばれていました。万葉集には「相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らははかなしく思はるゝかも」と詠まれています。古今和歌集には「こよろぎ」と詠まれましたが、その後歌集には「こゆるぎ」と詠まれました。

 

整備中の「明治記念大磯邸園」の入口です。

 

「旧古河別邸」は、現在「古河電工大磯荘」になっていました。

 

歩道は遊歩道のような造りになっていました。

 

    

松並木が途切れるあたり、「大磯中学校前交差点」の直ぐ先右手に「上方見附跡」がありました。ここが大磯宿の西の入口になっります。

 

この見付には街道を挟んで両側に台形状の石積みがあり、高さは約1.6mでその上に竹矢来(竹で組んだ柵)が組まれていました。

 

上方見附跡の50~60m先左手の路地の入口に「島崎藤村邸」の看板がありました。島崎藤村といえば中山道の馬込宿が有名ですが、大磯に自宅があったのを初めて知りました。ここは藤村が晩年約2年を過ごした旧宅で、町屋園と呼ばれていたそうです。三間の平屋建て民家で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラスが使われていました。

 

そのすぐ先には、歴史を感じさせる肉と野菜の店「相模園」がありました。

 

「上方見附跡」から約3分、「鴫立沢交差点」に着きました。

 

この交差点右にある茅葺の建物が「鴫立庵」です。

 

 ”心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ”

江戸時代初期の1664 年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建てました。
そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝生の五仏)をこの地に運び草庵を結んだのが「鴫立庵」の始まりです。
その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在第二十三世 本井英庵主へと続いています。

国道から数段の石段を下り「鴫立沢」に架かる石橋を渡ると「鴫立庵」がありますが、ゆっくり中を見学する時間がなく残念でした。ちなみに入庵料は町外は大人310円でした。
 

    

橋の側には「しぎたつあん」と刻まれた石碑と「旧跡鴫立澤」と刻まれた2基の石碑が立っていました。

 

国道に戻り歩き始めたところ、「鴫立庵」の柵にカエルのような生き物のレリーフがありましたが、これは大磯出身の第15世庵主「原昔人」が、当時親交の深かった正岡子規に送った自作の鋳造の置物、「蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)の蛙」に因んで作られたもののようです。

 

    

「鴫立庵」の10mほど先に「湘南発祥の地 大磯」と刻まれた大きな石碑が立っていました。

崇雪が建てた「鴫立沢」の標石の裏に「著盡湘南清絶地」と刻まれているのが、湘南という言葉の始まりといわれています。湘南という言葉はそもそも中国の湘江の南方一帯の景勝地の称で、これにちなんで、相模国南部、つまり“相南”が湘南と書かれるようになりました。「著盡湘南清絶地」とは「ああ、しょうなんせいぜつち」と読み、“清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所”という意味です。崇雪にとって当時この辺りの海岸が、中国湘江南部の美しい景色と同じように美しい場所であったので碑を刻んだといわれています。

 

    

「湘南発祥の地」の石碑の斜め前の民家の塀の中に「高札場跡」がありました。

高さ約3m、幅約5mで幕府の権威を示すため、見上げるように作られていました。

 

    

「高札場跡」から約1分歩くと国道1号線は大きく左にカーブしますが、旧東海道は右の道に入り直進しました。

 

その角に蒲鉾、はんぺんで有名な明治11年創業の「井上蒲鉾店」がありました。吉田茂も愛したはんぺんを売っている店ということで入ってみました。私自身はんぺんがあまり好みではないので、蒲鉾とさつま揚げを買って帰りました。さすが美味しかったです。

 

つづく