松の木の側の「GUSTO」でトイレ休憩とコーヒータイムをとり、再び歩き始めました。

歩き始めて4、5分で「親木橋交差点」に着きました。交叉点の左奥には東海道本線が見えました。

 

海側の歩道には横断歩道がなく歩道橋しかありませんので歩道橋を渡りましたが、歩道橋上からは、右手奥に西湘バイパスの国府津ICがみえました。

 

交差点を過ぎるとすぐに「森戸川」を渡りました。

 

    

JR国府津駅の少し手前右手に「御勧堂」と刻まれた古く汚れた石碑が立っていて、その奥に石造りの小さなお堂のような建物が建っていました。その時は何かわからず写真を撮りましたが、帰って調べたところ、親鸞聖人に関するものと分かりました。

親鸞聖人は鎌倉時代、国府津にある「真楽寺」に度々逗留し布教しましたが、「御勧堂」はその時布教のために建てた庵です。この堂は、「真楽寺」の飛び地になります。「真楽寺」は聖徳太子にゆかりがあるという古刹で、親鸞聖人が逗留したことから天台宗から浄土真宗に改宗され、寺号も親鸞聖人から命名してもらったのだそうです。

 

石碑から50mほど先の交差点の左に、JR国府津駅がありました。小田原の「新宿交差点」から約1時間半でJRの一駅区間を歩いたことになります。

 

駅前の交差点から3分強歩くと、旧東海道は相模湾の海岸線に最も近づき、すぐ横を西湘バイパスが走っていました。

 

さらに2、3分歩くと路地の入口に篤く祀られた道祖神がありました。よく見ると「双体道祖神」のようです。

 

    

さらに約4分ほど歩くと、消防団分室横の公民館の玄関先にも「双体道祖神」がありました。

 

さらに3分ほど歩くとまた「双体道祖神」がありました。この辺り他と比べ道祖神の数が多いです。それも双体道祖神です。この道祖神の横には石標があり、「坂下道祖神」と刻まれていました。坂下の坂はこれから行く「車坂」の事だと思います。

 

    

「坂下道祖神」から約3分、「大やまみち」と刻まれた大きな道標と常夜灯が立っていました。常夜灯を見るのは久しぶりです。

 

道標の上部には不動明王が鎮座していました。このような道標は初めて見ました。

大山道とは、江戸時代の関東各地から、相模国大山の山頂にある「石尊権現社」に登拝する参拝者が通った古道の総称です。大山道の道標には供養塔や馬頭観音等さまざな石塔と一体となっているものがあります。大山詣りとの深い結びつきを感じさせる上部に不動明王を載せる道標もあり、中には不動像と塔身部が一体で彫り出されているものもあります。この道標は、一体で掘り出したものではなく上部に載せたものだと思います。

 

    

道標の100mほど先に「史跡車坂」「史跡前川の里」と書かれた標柱が立っていました。ここから旧東海道は緩やかな上り坂になりましたが、この坂を「車坂」と呼ぶようです。

前川の里は弥生時代の集落の跡である「中里遺跡」辺りを指すようですが、どうしてここに表示されているのか分かりませんでした。

 

車坂のあるここ前川地区は、昔から歌に詠まれるような有名な場所のようで、太田道灌や源実朝等の歌が掲示されていました。

 

「車坂」を少し上り相模湾を見ると、伊豆大島が見えましたが、私が住んでいる伊豆高原からの見え方とやはり少し違いました。

 

「車坂」の標柱から約3分、左手路地の少し奥まったところに「浅間神社」が見えました。祭神は「木花咲耶姫命」(このはなさくやひめのみこと)で、宝永4年(1707)の富士山の噴火で火山岩1個が落下し近隣の者がこれを発見し納めたと言われています。境内には庚申塔、金比羅権現、双体道祖神や文字だけの道祖神など石塔群があるそうですが、現地には行けませんでした。

 

「浅間神社」入口から約2分で、「橘インター入口交差点」に着きました。ここを右折すると西湘バイパス橘インターです。

 

交差点を渡るとすぐ「二宮町」に入りました。

 

    

「二宮町」に入り2分強歩いているとまた「小田原市」に入りました。

 

さらに1、2分歩き「押切橋交差点」手前で再び「二宮町」に入りました。この辺り「二宮町」の飛び地のような形になっています。

 

押切橋」の下を流れる「中村川」の流れです。河口には西湘バイパスが見えますが、先ほどからほぼ西湘バイパスに並行して進んでいます。

 

「押切橋」を渡りきるとすぐ、右に上る坂道(押切坂)がありましたが旧東海道はこちらの道です。

 

坂の途中にまた双体道祖神が祀られていました。

 

    

国道から分かれて約2分、右手の民家の庭の角に「松屋本陣跡」がありました。

この辺りは、小田原宿と大磯宿の中間に位置し、小田原宿~大磯宿間の距離が

16kmと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えているため、「間の宿」として休憩所が設けられ、大友屋、蔦屋、釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて大変賑わっていました。

その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」です。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定文化財になっています。

 

「松屋本陣跡」から約2分で、国道1号線に戻ってきました。

 

    

交差点角は江戸から数えて18番目の一里塚「押切坂一里塚跡」がありました。

塚は街道の両側に造られ、北側の塚は高さ約3.6mで上には欅が植えられ、南側の塚は高さ約3mで上には榎が植えられていました。国道との合流地点には、「旧東海道の名残り」と書かれた標柱も立っていました。

 

つづく