旧東海道歩き旅21日目のスタートはJR東海道線小田原駅からです。

 

駅から約1Km歩き、前回歩き終えた「新宿交差点」に着きました。ちなみに「新宿」は「しんしく」と読みます。新宿町は江戸から小田原宿に入った最初の町でした。

 

旧東海道は現在国道1号線になっていて、この辺りは片側2車線で電柱は地中化され、すっきりとした街並みになっています。

 

「新宿町」を示す標石も立っていました。

 

    

「新宿交差点」から約4分、横断歩道の脇に「江戸口見付」と20番目の一里塚である「山王原一里塚跡」がありました。ここが江戸から小田原宿への入口になります。かって一里塚には榎が植えられ、高さ6尺5寸、5間四方の規模だったそうです。

 

    

歩道橋の反対側にも「江戸口見付跡」があり、松の古木が立っていました。一里塚には当初榎が植えられていましたが、枯れたのち松が植えられたそうですが、その松でしょうか。

ここには「江戸口見付」の詳しい説明板がありました。それによりますと、

北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、江戸から来た場合、門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形(枡形)になっていました。

 

「見付跡」を過ぎると、国道1号線での距離ですが、日本橋まで82kmの所まで来ました。

 

    

「見附跡」から2、3分歩くと、左手に「宗福寺」がありました。山門を入ると右手に鳥居があり、その奥に山王神社の分社がありました。明治の神仏分離時に御神体を仮本堂に安置していたものを近年祠を建て稲荷社と白山妙理大権現を合祀し祀っています。お寺の中に神社があるのは変な気がしますがよくあるケースです。

 

「宗福寺」の隣に「星月夜の社」と呼ばれる「山王神社」があります。

明応4年(1495)北条早雲が、当時の小田原城主の大森藤頼を破り城を手中に納めました。その頃この神社は海辺にありましたが、高波で崩壊したため慶長18年(1613)に、ここに移されました。神社が海辺にあったときに「星月夜ノ井戸」があり星月夜の社と呼ばれていましたが、その後、井戸もここに移されました。

 

多分これがその井戸と思われます。

 

神社の隣を流れる「山王川」です。

 

下流を見るとすぐそこは相模湾で、西湘バイパスの高架が見えました。

 

    

「山王川」から約5分、小田原市立山王小学校への路地の入口に「上杉龍若丸墓」と書かれた案内板がありました。上杉龍若丸は関東管領上杉憲正の嫡子ですが、天文21年(1552)憲正が北条氏康に敗れたため越後に逃れましたが、最後は13歳の若さで伊豆で自刃したという説もあります。

 

さらに1、2分歩き、「常剱寺入口交差点」のY字路を右折し、一旦国道1号線から離れました。

    

交差点を右折して1、2分歩くと旧東海道は左にカーブし、再び国道1号線に合流しました。カーブを直進すると松の並木が見えましたが、もしかしたら旧東海道はこのまま直進し、「酒匂川」を渡っていたのかもしれません。

 

ここで一つミスをしてしまいました。Y字路を右折してすぐの路地を入ると、「新田義貞」の首塚があったのですが、見落としてしまいました。

 

    

国道1号線に戻り3、4分歩くと前方に「酒匂川」に架かる「酒匂橋」が見えてきました。

 

    

「酒匂川」右岸下流を見ると先ほど見た松並木が見え、左岸下流を見ると、右岸の松並木の延長線上に松並木が見えました。やはりここがかっての「渡し場」のようです。

 

    

酒匂橋の上からは、下流側に「西湘バイパス」が、上流側には雪をかぶった富士山の頂上が見えました。

 

「酒匂橋」を渡りしばらく歩くと、左手に「法善寺」がありました。

永享11年(1439)法善入道と称した中野禅門がこの地に真言宗の庵を結んだのが起こりで、長禄3年(1459)伯父にあたる本法院日敬聖人が訪ねて来て日蓮宗に改宗、寺として開山したそうです。

 

「法善寺」の少し先右手の路地に何気ない「道祖神」が立っていました。お供え物がありましたから、信仰心の篤い人がまだまだいることがうかがえます。

 

道祖神の直ぐ先、酒匂不動不動尊脇の路地を20mほど入ると、

 

    

小さな公園があり、その中に「明治天皇酒匂行在所址」(旧鈴木新左衛門屋敷跡)と刻まれた記念碑が立っていました。明治6年明治天皇は箱根行幸の帰路に、鈴木新左衛門の屋敷内で昼食をとったという記録があります。これを記念して昭和15年に石碑が建てられました。

 

路地から国道1号線に戻ると、目の前に格式ある城門のような建物がありましたが、看板には「社会福祉法人ゆりかご園」と書かれていました。

「社会福祉法人ゆりかご園」は、予想できない災害や事故あるいは親の離婚・病気・不適切な養育を受けるなどさまざまな事情により家庭による養育がむずかしい児童を受入れ、その健やかな成長と自立を支援している施設だそうです。

ゆりかご園は、創設者(初代理事長)山下たけ氏が自らの所有する土地・建物を用いて、戦後間もない昭和25年に同胞援護会「第二中心学園」として開設し、昭和28年には社会福祉法人ゆりかご園として認可され、「ゆりかご園」として新たにスタートし、子どもの定員も30人から50人に変更しました。その後、園舎の新築を行いましたが、火災や施設の老朽化のため、創設60周年を期に施設の再整備計画を立案し、平成26年4月には子どもの定員を45人に変更し、同年12月に園舎の全面建て替えが終了したそうです。
 

路地の入口に建つ「酒匂不動尊」です。

明治21年横浜野毛山の行者海老原得浄師が開山した成田山の小社で、本尊は鎌慶作の不動明王座像です。境内右にある水掛不動は酒匂延命水と呼ばれる地下水が湧き1杯飲めば3年長生きできると言われています。

 

「酒匂不動尊」から約1分、「酒匂県営住宅入口交差点」の手前の路地を左に入ると、「上輩寺」がありますが、

 

    

山門前を左に曲がり道なりに進むと大きな銀杏の木が見えました。今は冬のため葉はありませんが、秋の紅葉はさぞかし見事なものだろうと思いました。

 

国道に戻り、「酒匂県営住宅入口交差点」を過ぎ、右側の一つ目の路地入口に丸い石の三体の道祖神が立っていました。ユニークな形の道祖神です。

 

道祖神から約5分、松並木が見えてきました。多分旧東海道の名残だと思います。

 

    

十数分間国道1号線の歩道を歩いていると「小八幡一里塚跡」がありました。

事前に調べていたため分かりましたが、日本橋に向かって歩いていると塀の蔭になり見落としてしまいそうです。また塚らしきものは全くなくただ説明板があるだけでした。

この一里塚は江戸から数えて19番目の一里塚で、天保年間の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高2間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」と記されています。

 

一里塚の直ぐ先に立派な松の木は一本立っていました。

 

つづく