「三枚橋」を渡り右折し国道1号線の右側の歩道を小田原に向かい歩き始めましたが、観光地の国道1号線の下り車線は、さすがに渋滞でした。

 

国道の山側には「箱根登山電車」が走っていました。

 

「三枚橋」から4分弱歩き、横断橋を渡り反対側の歩道に下りましたが、橋の上から見た「箱根新道」と国道1号線との合流地点は激しい混雑でした。

 

「箱根新道」と「国道1号線」との合流地点の横で、旧東海道は国道1号線から分かれ、左の旧道に入って行きました。

 

その角に「山崎ノ古戦場」と刻まれた石碑が立っていました。

慶応4年(1868)5月26日に起こった、幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場で、「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれています。この一戦で遊撃隊長の伊庭八郎は小田原藩士高橋藤太郎との一騎打ちに及んで左手を失いましたが、その後函館戦争まで活躍しています。相手の高橋は討ち死にしました。

 

5、6分旧道を歩くと、再び国道1号線に合流しました。

 

    

国道1号線の合流地点には車道と同じ高さの歩道がなく、階段を上り車道の2、3m高いところに歩道が設置されていて、歩道のすぐそばを箱根登山電車が走っていました。

 

    

歩道の階段を下りるとすぐ先で、旧東海道は左の旧道に入って行きました。

 

階段を下りた所には、交通安全のダルマもありました。

 

    

旧道に入って20mほど先左手に「日本初の有料道路」と書かれた石碑(説明板)がありました。

明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1km、幅員平均5mの日本初の有料道路が開通しました。江戸時代の東海道を広げ、2か所の急坂を人力車が通れる勾配の緩やかな道に付け替えました。この石器碑の立っている道は、その時付け替えられた道です。

開通した時から5年間、道銭(通行料)を取りましたが、人力車は1銭、大八車は7里、小車は3里でした。しかし、日本初の有料道路と称している場所は、日本各地にあるようです。

 

「日本初の有料道路」の石碑から約2分ほど歩き、箱根登山電車の踏切を渡りました。

 

    

しばらく入生田の静かな住宅地の中を歩きました。街道沿いに建つ道祖神にはお供えものが絶えず、住民の信仰心の篤さが感じられました。

 

    

踏切を渡ってから約13分、「馬五郎橋」という名の小さい橋の手前に左に入る路地があり、その路地を10mほど行くと、お地蔵様の奥に「風祭一里塚跡」の説明板が立っていました。

ここは、江戸から数えて21番目の一里塚があった場所です。塚には男塚、女塚と街道の左右に対で置かれ、広さは5間(約9m)四方でした。塚には榎が植えられていました。

 

    

「風祭一里塚跡」から2分弱歩くと、右手の路地の先に箱根登山電車の「風祭駅」が見え、駅の向かいの建物の壁に鈴廣蒲鉾の看板があり、そこに「お食事」を書かれていましたので、ここで遅めの昼食を摂ることにしました。

 

「風祭駅」を過ぎ国道1号線との交差点の向こうに鈴廣の食事処がありました。ちなみにこの施設の駐車場が有名な「箱根駅伝」の中継所になります。

 

この一帯には鈴廣の食事処やお土産売り場、蒲鉾博物館などがありました。

レストランから見た中庭の紅葉は、本日一番の美しさでした。

 

食事を終え旧中山道に戻る途中、正面に「国立箱根病院」の大きな建物が見えました。

 

    

旧東海道に戻り、左手に道祖神を見ながら4、5分歩くと、前方に「小田原厚木道路」の「小田原西インター」の高架がありました。

 

    

旧東海道はこの高架の下で、何度目かの踏切を渡り、国道1号線に合流しますが、踏切の手前を線路に沿って10mほど直進すると、馬頭観音像と題目碑が立っていました。傍そばに建つ説明板によりますと、

文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴く途中、5月12日この地を通り、巨岩「象ケ鼻」(形が象の鼻に似ているところからそう呼んでいた)の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで、故郷忘れ難く遥かに亡くなられた両親を偲ばれ、回向して冥福を祈られ、お曼荼羅本尊を書かれ、石の宝塔を建て首題釈迦牟尼佛多宝塔如来菩薩を刻し、衆生済度の病即消滅を祈願された。とあります。

説明板の文字をそのまま書いたので分かりずらくてすみません。

 

しばらく国道1号線の歩道を小田原に向かい歩きました。

 

4分強歩いていると、前方に小田原の市街地が見えてきました。

 

    

踏切を渡ってから約8分、「上板橋交差点」のY字路を左折しました。右に行けばそのまま国道1号線です。角には数基の燈籠が乱雑に置かれていました。どうせならもう少し目立たない所に置けば良いのに。

 

Y字路を左折して箱根登山電車の高架下を通るとすぐ左に「板橋延命子育地蔵堂」がありましたが、ここの2本の銀杏の紅葉がみごとでした。

この地蔵堂は、曹洞宗に属し正しくは金竜山宗福院と称します。ご本尊は弘法大師の御作「延命子育地蔵大菩薩」で、身丈8尺の大坐像の腹中に鎮座しています。そのため〝腹籠(はらごもり)のお地蔵さま″(胎内仏)とも呼ばれています。

 

この辺りから歴史を感じさせる建物が増えてきました。

 

    

「地蔵堂」から約1分歩くと「松永記念館入口」の表意識が立っていましたが、記念館は路地の奥にあるため行くのは諦めました。

松永記念館は、戦前・戦後と通じて「電力王」と呼ばれた実業家であり、数寄茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が、昭和21年に小田原へ居住してから収集した古美術品を一般公開するために、昭和34年に財団法人を創立して自宅の敷地内に建設した施設です。昭和54年に財団が解散し、その敷地と建物が小田原市に寄付されました。また、庭園は平成19年2月「日本の歴史公園100選」に選ばれ、四季を通じ様々な花を観賞できます。

 

「松永記念館入口」の10mほど先に「国指定有形文化財」の「内野邸」がありました。醤油醸造業経営の内野家の住宅として明治36年に建築された建物で、その一角に2017年10月に「喫茶 武功庵」がオープンしました。(「武功庵」は内野醤油の商品名からとった名前だそうです。)歴史的情緒溢れる建物で季節の和菓子と一緒に抹茶や足柄茶、コーヒーが味わえますが、月に数日しか営業していなくて、当然当日も休業日でした。

 

気が付けば道路の舗装が石張りになっていました。

 

    

「武功庵」から2分弱歩くと、右手に「TEA FACTORY 如春園」が、その斜め向かいに「薬膳喫茶 KURA」がありましたが、どちらも古民家を活用した店舗です。

 

「TEA FACTORY 如春園」では、小田原周辺の茶畑で、農薬を一切使わず有機と無施肥栽培で、お茶の樹本来の香りを大切に自然農薬や剪定の仕方など工夫しながら管理して、こゆるぎ紅茶を生産しています。2019年3月に閉店した築90年の下田豆腐店工房の建物を受け継ぎ、2020年3月31日(火)紅茶工房を兼ねた古民家喫茶店をオープンしました。

 

「薬膳喫茶 KURA」は、昭和初期に建てられたレトロな洋館を活用した、店名の通り薬膳を中心に据えた食事やスイーツがいただけます。オープンは2023年9月でつい最近です。

 

    

「薬膳喫茶 KURA」から2、3分歩くと左手の路地の入口に「掃雲台(そううんだい)入口跡」と書かれた標柱が立っていました。

「掃雲台」は、明治39年(1906)頃、益田孝(純翁)が大窪村板橋に建設した別荘の名前です。益田は67歳の時財界を引退して掃雲台に移住し、茶事に励みました。掃雲台の敷地は3万坪(約9.9Ha)あり、門の左手に毛織物工場、道の両側の竹林の中に椎茸、道から離れて蜜柑畑、梅林、鶏舎、豚舎、缶詰工場などがありました。

 

「掃雲台入口跡」から1分強歩くと、前方に東海道新幹線の高架が見えてきました。

 

高架下を過ぎ右に曲がると、国道1号線でした。

 

交差点角に「板橋(上方)口」と書かれた説明板がありました。

 

それによりますと、この辺りは東海道に対応する小田原城総構の西側の出入り口が設けられていた場所です。この口から内側は城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都(上方)に通じていたので「上方口」とも呼ばれ、東の「山王口」と並ぶ最も主要な出入り口として、厳重な構造を持っていました。現在の国道は直進していますが、かっての東海道は板橋口を出ると一度北に折れて、再び西に曲がっていました。

ここは小田原宿の西の位置口でもありました。

 

小田原宿到着です。

 

つづく