「板橋口」から東に向かい、JR東海道本線のガードの手前の歩道の一角に「御組長屋」と刻まれた石柱が立っていました。この辺りには、古地図によると「足軽組長屋」が街道の両側に建っていたようです。

 

 

「板橋口」の内側の町「山角町」が刻まれたの石柱がありました。このような江戸時代の町名と由来を刻んだ石柱が街道沿いに多くありました。

 

  

「板橋口」から約8分歩くと「筋違橋町」と刻まれた石柱が立っていて、石柱には「漢字名」「ひらがな名」「由来等」を3面を使って刻まれていました。ここ「筋違橋町」(すじかいばしちょう)は町名に橋の名が使われていますが、橋についての資料はないそうです。東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安西小路(いずれも武家屋敷町)が南に延びていました。

 

その地名は、交差点の名前に残っていました。

 

この辺りには老舗の店舗が多くありました。この店は大正10年創業の「柳谷ベーカリー」です。

 

お城のような建物は、小田原名物「ういろう」です。お菓子の「ういろう」が会社名になっています。

「ういろう」の始まりは、室町時代に中国から帰化した外郎(ういろう)家が国賓のもてなしに考案した米粉の蒸し菓子が評判となり、家名より「ういろう」と呼ばれるようになりました。また「ういろう」ではお菓子の「ういろう」ではなく、薬の「ういろう透頂香」を6百数十年前から売っています。

 

    

「ういろう」の向かいに「清水彦十郎本陣跡」の説明石がありました。現在は空き地になっていますが、「清水彦十郎本陣」は小田原宿に4軒あった本陣の一つです。出雲松江の松平家や美濃大垣の戸田家などの大名が定宿としていました。

 

    

「清水彦十郎本陣跡」の30m程先に江戸時代初期から薬種業を営んできた「済生堂小西薬房」の趣のある建物が建っていました。

 

軒先には「調剤薬局」と書かれた看板に屋根がついていました。

 

    

小西薬局の20mほど先「間中病院」の生垣の前に「上の問屋場跡」の説明石がありました。小田原宿にはここ中宿町の「上の問屋場」と高梨町に「下の問屋場」の2か所に問屋場がありました。

 

    

さらに20mほど先のひもの屋さんの前に「久保田本陣跡」の説明石がありました。

紀州徳川家や九州の黒田家、鍋島家、中国の毛利家といった大名家が定宿としていました。また久保田氏は、江戸時代前期から町年寄や名主役も務めていました。

 

「久保田本陣跡」の50mほど先のマンションの前に「片岡本陣跡」の説明石がありました。伊予松山の松平家が定宿としており、当主片岡永左ヱ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な資料を多く残しています。

また明治11年11月7日、明治天皇が北陸・東海御巡幸の際ここ「片岡本陣」に宿泊されています。

 

国道1号線は「片岡本陣跡」の約100m先で左折しますが、旧東海道はそのまま直進しました。

その角に「小田原宿なりわい交流館」がありました。この建物は、関東大震災で被害を受けた建物を昭和7年に再建したもので、小田原の典型的な商家の雰囲気を醸し出しており、無料の休憩所になっています。

 

小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。東は徒歩渡り(10月から3月の間は橋が架けられたそうです)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えているため、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ね、本陣4軒、脇本陣4軒と東海道随一の宿場町でした。

 

交流館の前の通り(旧東海道)は「小田原かまぼこ通り」の名前がついていましたが、その名前の通り多くの蒲鉾屋さんが店を構えていました。

 

交流館横の路地を70mほど入り左折すると、有名な蒲鉾屋さん「籠清本店」があるので行ってみました。ここで正月用の少し高級な蒲鉾を買いたかったのですが、賞味期限の関係でそれは断念し、普通の蒲鉾にしました。

 

旧東海道に戻り50mほど歩くと、右手に「清水金左ヱ門本陣跡」がありました。

ここ「清水金左ヱ門本陣」と「片岡永左ヱ門本陣」は、明治天皇が全国巡幸の際宿泊されたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっています。

 

「清水金左ヱ門本陣」は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家なぞ西国の有力大名が定宿としていました。清水氏は戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫といわれており、江戸時代には小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。

 

また明治天皇が5回にわたり宿泊されており、敷地の奥には「明治天皇小田原行在所跡」と刻まれた大きな記念碑が立っていました。

 

    

「清水金左ヱ門本陣」から2、3分歩くと、自販機と電柱に挟まれて「下の問屋場跡」の案内看板が立っていました。中宿町には「上の問屋場跡」がありました。

 

途中に「万町」と刻まれた「町名石」がありました。普通は「よろずちょう」ですが、ここでは「よろっちょう」と読むそうです。

 

    

「交流館」から約700m歩くと、かまぼこ通りは終わり、旧東海道は左折しました。

 

左折してから1分強で国道1号線との「新宿交差点」に着きました。旧東海道はこの交差点を右折しますが。本日の行程はここまでとし、小田原駅に向かうことにしました。

 

駅に向かう前に、この交差点を左折してすぐのところに「小田原城の移築門」があるので行ってみました。国道1号線に面し少し奥まったところにその門はありましたが、立派な薬医門でした。

 

旧東海道歩き旅20日目完歩です。