石畳の道を1分強歩くと道路上を跨ぐ橋がありました。この橋は「あゆみ橋」と呼ばれる狩野川に架かる人道橋で、平成11年に完成しました。中央公園と香貫公園を結び、歩行者・自転車専用橋として供用されています。この橋の完成により、沼津駅周辺から市役所へのアクセスが容易になり、歩行者の利便性が向上しました。
「あゆみ橋」脇の階段を上ると中央広場があり、左手奥に「沼津城本丸址」と刻まれた石碑が立っていました。沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城に比べ小さいものでした。沼津城本丸は、三枚橋城本丸跡に建てられていました。
ちょうどこの日中央公園では、車体に派手なペイントをした自動車が10数台集まって、広場を埋め尽くしていました。なにかイベントがあったのでしょうか。
旧東海道に戻り約2分歩くと、県道380号線に合流し右折しました。交差点角には、石畳の道の入口にあったのと同じ町名の説明石がありました。
県道380号線との合流地点の歩道橋の階段脇に「旧志多町」の町名由来の説明石がありました。
この地域の西側一帯は高い台地になっていて、沼津城から見ると城の「下」に位置している町というところから付けられ、初めは「下町」と称されたといわれます。東海道が整備され街道筋に町域が整って、「下町」から「志多町」に字を当てて使われるようになりました。
県道380号線を1、2分歩くと、歩道橋のある大きな交差点に着きました。交差するのは伊豆半島を縦断する国道414号線です。この交差点には横断歩道がないため、やむなく歩道橋を使い国道414号線を横断しました。歩道橋から右手を見ると狩野川に架かる「三国橋」が見えました。
歩道橋から約4分、旧東海道は平町で県道380号線から分かれ、斜め右の市道に進みました。
県道380号線から分かれ約2分、左手にポケットパークが見えてきました。そこには江戸から30番目の「沼津・一枝一里塚」がありました。この一里塚の位置は、次の「伏見一里塚」から計測すると距離が不足していますが、本来は本町地内に造るべきものを宿場内であるため東に移したといわれています。反対側の狩野川の川べりにあったもう一つの一里塚は現存していません。
一縷塚の前に大小二つの石が並んでいましたが、「玉砥石」と呼ばれる石で、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いた「砥石」と伝えられています。柱状の石にそれぞれ直線的な溝ががあり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。「玉砥石」は静岡県下では他に発見されておらず、貴重なものであるため、静岡県指定の考古資料となっています。
ここには「一里塚跡」と書かれた道標もありました。
一里塚跡から2分弱歩くと狩野川に架かる「黒瀬橋」を下を通りますが、その手前に石造りの「地蔵堂」が建っていました。幕末の混乱や廃仏毀釈で荒廃し放置されていた地蔵尊を見かねた地元の人たちが、4隅の柱の一辺が3間の正方形状に配置された小堂を建てて地蔵尊を祀ったのが始まりとされています。
その後狩野川の氾濫のたびに流出の危機にあい、いつの頃か現在の石造りになり、堤防改修のため現在の地に移されたそうです。
地蔵堂の街道際に竹で作った生垣の一部がありました。これは「沼津垣」と呼ばれるもので、竹を網代編みにした沼津特有の垣です。駿河湾に面した沼津では、塩分や砂を含んだ強い海風を防ぐため、生活の知恵として沼津垣が誕生しました。素材は、伊豆・箱根の山中に自生する篠竹の良材だけを選んで編んだと伝えられています。
地蔵堂の横に堤防に上がる階段がありましたので上ってみましたが、狩野川はコンクリートで固められていました。
しばらく堤防上の道を歩いた後旧東海道に戻り数分歩くと、旧東海道は再び県道380号線に合流しました。
県道380号線を10分弱歩き、左手にトヨタの店舗がある「東下石田交差点」で、旧東海道は再度県道380号線から分かれ、右の県道45号線になりました。
県道145号線を2分弱歩くと、左手に「従是西 沼津領」と刻まれた「傍示杭」がありました。先ほど見てきた西間門にある傍示杭は、下半分が欠けていましたが、この傍示杭は完全な形で残っていました。
そばに旧沼津藩の領域図がありましたが、これを見ると、南北に流れる「黄瀬川」と狩野川の流域にあったことが分かります。
傍示杭から1分強歩くと左手に「潮音寺」がありました。この寺には「亀鶴姫の碑」があるそうですが見逃してしまいました。
幼いときに両親を亡くした姫は、聖観世音菩薩を念じ、読経・写経にいそしむ日々を送っていました。18才の時、源頼朝公が富士の牧狩りの宴に美人のほまれ高き亀鶴姫を召されましたが、「一生不犯」の志が固い姫は、再度の召にも応ぜず、この世を憂き事に思い、黄瀬川の水上なる百沢の瀧のほとりに立ち聖観世音菩薩の姿にて合掌祈念しつつ、
”み佛の深きめぐみぞ頼みなる 身は瀧きつ瀬のあわと消ゆとも”
と一首の歌を残して川に身を投げたと伝えられています。
そこから約4分歩くと、「亀鶴姫」が身を投げたといわれる「黄瀬川」に架かる「黄瀬川橋」に着きました。
川の上流には富士山が見えるはずですが、生憎かすんで見えませんでした。
橋を渡り終えるとすぐ右手に松並木が残されていました。
特に名前は付けられていませんでしたが、「東海道松並木」の標識と、「清水町 長沢 松並木」と書かれた道標が立っていました。
「黄瀬川」を渡ると沼津市から清水町になりました。
ところで後から気付いたことですが、この松並木の奥にある立派なビルは、「臼井国際産業株式会社」という自動車の配管部品を中心とした自動車関連部品メーカーです。私が現役の時この会社とお付き合いがあり、一度この本社を訪問したことがありますが、こんな立派なビルではなかったと思います。もう20年も前の話ですが。
松並木から3分弱あるくと、左手に「対面石」と書かれた案内板がありました。この奥にある「八幡神社」の中にその「対面石」があるので行ってみました。
100mはある参道を行くと鳥居があり、さらにその奥に本殿がありました。
八幡神社の創建は不詳ですが、「八幡神」は源氏の氏神であり、源頼朝は平家討伐後社殿の再建、境内整備を行いました。その後駿河・伊豆国境の守護神として今川氏、北条氏をはじめ代々の徳川将軍家より朱印状を賜るなど篤く崇拝された神社です。
「対面石」はその本殿の左奥にありましたが、何の変哲もない石でした。
治承4年(1180)10月、平家の軍勢が富士川辺りまで攻め寄せてきたとき、鎌倉にあった頼朝はこの地に出陣しました。そのとき奥州から駆け付けた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたといいます。この対面の時、兄弟が腰かけた2つの石を「対面石」と呼びます。
八幡神社から旧東海道に戻り3、4分歩くと旧東海道は大きく左にカーブし、
さらに約3分歩くと国道1号線との大きな交差点に着きました。旧東海道は直進ですが、右を見ると遠くに「柿田川公園」の緑が見えました。
つづく





































