旧東海道歩き旅18日目のスタートは、JR東海道線「吉原駅」からです。
本日の天気予報では気温30度を軽く超え、熱中症警戒情報が出されています。時刻は午前8時過ぎですが既に暑い。熱中症に気を付けながらスタートしました。
吉原駅のすぐ前の交差点を右折し旧東海道を歩き始めると、すぐJR東海道線を右に見ながら並行して歩くことになりました。
歩き始めてから約4分、旧東海道は右折し踏切を渡りました。正面には「東海道」の案内標識もありました。
踏切を渡るとすぐ丁字路があり、旧東海道は左折しました。左角には旧東海道沿いの名所の案内標柱があり、後ろに行けは前回見た「左富士」「中吉原」が、先に行けば「毘沙門天」があることを示していました。
富士市は製紙工業が盛んな市で、左手には民家越しに製紙工場の煙突が見えましたが、一つは赤さびて稼働していませんでした。
歩き始めてから10分強、右前方に「妙法寺」の緑が見えてきました。ここにある「毘沙門天」が有名なので見に行きました。
大きない石段を上ると正面に立派な仏殿が立っていました。左から「毘沙門堂」「客殿」で、右奥にある建物が少し異質ですが「道場」のようです。
「毘沙門堂」に向かって左手に「毘沙門天」が立っていました。意外とさっぱりとした造りです。
「妙法寺」の創建は享保4年(1719)で、古くから富士山信仰が行われ、毘沙門堂は富士登山修験の道場です。毘沙門天の前にある説明板によると、体の痛むところと、この像の同じところ(膝、腰,足など)を御布でよくさすると、毘沙門天が代わってその痛みを取り払ってくださるそうです。
毘沙門堂から約7分歩いていると、左手の民家の庭の中に、看板とその奥に石碑が立っているのを発見しました。説明板によると「高橋勇吉」という人物が、この辺りの80ヘクタールに及ぶ水田を水害から守るため、私財を投げうって14年の歳月を費やし「排水用の掘割」を完成させた記念の石碑でした。彼が天文の知識や土木技術に優れていたので、この掘割のことを「天文堀」と呼ぶそうです。
「高橋勇吉」の碑から約6分、旧東海道は大きく左にカーブしましたが、その手前を右に進むと、「富士マリンプール」があります。
左カーブの先は丁字路になっていて、旧東海道は県道380号線に合流し、右折しました。交差点角にはこの先に「間宿 柏原」があることを示していました。
時々旧東海道の右手の路地の奥には「田子の浦の松」が見えました。
左手には「愛鷹神社」、「米之宮神社」を見ながら歩きましたが、
天気の条件が良ければ左手奥に「富士山」の雄姿が見られるはずだったのですが、今回も雲に隠れて見ることができませんでした。
県道380号線に合流してから約10分歩くと、左手の植え込みの陰に石碑が一基立っていて、横には「春耕道しるべ第1号」と書かれた標柱が立っていました。
この石碑の横から北に延び、 富士山と愛鷹山の間を抜けていく道があります。
明治39年、吉永村(現在の富士市比奈あたり)の「仁藤春耕」が、私財をなげうち、十里木(裾野市)、印野、須走(ともに御殿場市)を通る山中湖までの道に、5年の歳月をかけ、120基の道しるべを建てました。戦争に行かなかったことを心苦しく思っていた春耕は、これこそ自分が出来る人助けとして天命を受けた、と思い、この事業を黙々と(周囲からは気がふれた、など陰口を言われていたそうです)成し遂げました。春耕が建てた120基の内、多くは工事の移動や、捨てられたり埋められたりして行方不明で、現在54基が確認されているそうです。
表面には和歌と富士山の線画が描けれ、側面には「須津村役場へ一里、吉永村役場へ三十一町」と刻まれています。
春耕の石碑から2分強歩くと、右前方に松の緑が見えて来ました。近づくとその下には「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑が立っていました。「沼田新田一里塚」跡です。江戸から数えて33番目の一里塚ですが、それらしき形跡も説明板もありませんでした。
一里塚碑の少し先、「昭和放水路」に架かる「平沼橋」の右手前に立ち入り禁止の標識がありましたが、その横に「増田平四郎」の像が立っていました。
「増田平四郎」は伊豆三島宿 (静岡県三島市)に生まれ、 駿河浮島沼 (浮島ケ原)の干拓と新田開発のため排水路建設を計画し、弘化3年 (1846)から慶応元年 (1865)まで12回に渡り韮山代官所に対して出訴、江戸の勘定奉行や老中に駕籠訴(かごそ:幕府の高官が駕籠で通るのを待ち訴状を投げ入れること)を6度行った末、ようやく幕府の許可を得て工事に着手しました。 2年半かけて排水開削工事を行い、明治2年ようやく竣工したが、その年の高波で破壊されましたが、 身延山久遠寺の援助を受けて引き続き工事を行うが、これも失敗に終わってしまいました。
現在の「昭和放水路」はほぼその時の位置に造られています。
放水路の奥に松の緑が見えたので、田子の浦の景色を見ようと少し戻り、株式会社杉山の横の路地に入り、海岸に近づきました。(路地と思ったのは間違いで、株式会社杉山の敷地内通路でした。どおりで「関係者以外立入禁止」の看板とロープが張ってありました。すみません。無視しました。)
近づくと松林の奥にコンクリートの大きな壁(防潮堤)があり、駿河湾を望むことはできませんでしたが、ただ松林だけは当時のまま駿河湾に沿って延々と続いていました。そこには「昭和放水路」完成の記念碑も立っていました。
防潮堤に沿って「昭和放水路」を渡り、松林の中を旧東海道に戻る途中、
「昭和放水路」の横に放水路の説明看板がありました。
「昭和放水路」は1級河川沼川から駿河湾に放流するよう造られた延長1080mの水路で、水田の洪水被害の防止と優良農地化を目的とし、昭和18年に完成しました。
この水路の上流に広がる「浮島沼一帯」は、愛鷹山麓の川からの水が流れ込み、東西に流れる沼川を通って吉原湊(現在の田子の浦港)に流れ出ますが、高低差が無いため排水が悪く、度々洪水被害が起きていました。この状態を改善するため江戸時代末期「増田平四郎」が放水路の建設をしましたが、高波で壊され、その後同じ場所にこの「昭和放水路」が建設されました。
「昭和放水路」から4、5分歩くと左手に「立圓寺」がありました。
山門を入った正面に多分開祖「日審」の像とその隣に「望嶽碑」が立っていました。この碑は、文化5年(1808)5月、尾張藩の典医であった柴田景浩(1745~1812)という人物が建立したものです。医学のみならず、墨竹画にも優れていた景浩は、この地から望む富士山の美しさに感銘を受け、この碑を建立しました。碑の裏には漢文で富士に対する景浩の思いが刻まれています。
(望嶽碑」の隣に赤い「錨」が展示されていました。この錨は、昭和54年10月19日救援米を運ぶ途中、台風20号に遭遇し「立圓寺」南方の柏原海岸に打ち上げられ難破したデラテック号の錨です。この遭難により命を落とした2人の船員の慰霊を祀るため建てられた慰霊碑です。
「立圓寺」の約100mほど先右手ブロック塀の陰に「間宿柏原・本陣跡」の標柱が立っていました。
事前に調べていたため見つけることができましたが、西(京側)から歩いてくると、ブロック塀の陰になり全く存在に気づきません。しかし東(江戸側)から来るとその存在がよく分かります。
「間宿・柏原」は、丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところにあります。柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にありました。柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名で、中間のこの地点で蒲焼の匂いにたまらず、足を止めた旅人が多かったそうです。なお柏原の地名は、平安時代の東海道の柏原駅がこの辺にあったからといわれます。
「間宿・柏原」から2分強歩くと左手にJR「東田子の浦駅」が見えました。駅前には
2019年9月に「東田子の浦駅」開設70周年を記念して立てられた大きな石碑がありました。
駅前には「六王子神社」がありました。
この神社の建立には酷い話が伝えられています。たまたま通りかかった一人を生贄にして、残りの巫女は村人に犯され、巫女(=処女)として生きる道を閉ざされてしまいました。それを儚んで6人の巫女は自殺したといいます。その罪を悔い、村人が祀ったというのがこの神社のいきさつのようです。
つづく





































