「富士川橋」には歩行者専用の橋が併設されており、安全に歩けました。
「富士川橋」の上流側には「四ケ郷頭首工」があり、満々と水を蓄えていました。「頭首工」とは、農業用水を河川から取水するため、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設(水門、堰堤、土砂吐等)のことで、用水路の頭の部分にあたることからこのように呼ばれています。
富士川の流れの中では、カワウが休んでいました。
橋の対岸に近づくと、左前方に「松岡水神社」の緑が見えてきました。この神社は、富士川の水害を防ぐために、失敗を繰り返しながら建設された堤防工事の完成を願って、江戸時代の初期に建立されたものです。
境内には多くの石碑がありましたが、これは「富士川渡船場跡」の石碑です。
この石碑は、東海道400年祭記念事業として平成13年に建立されたもので、江戸時代、水神社西側で渡船が行われ、上中下の渡し場がありました。川の状況により、上中下の渡し場が使い分けられたそうです。
「富士山道」の石碑は元は水神社の東方にあり、富士山禅定(登山)を目指す道者は、そこで東海道から北に分かれ、富士山本宮浅間大社や村山浅間神社に向かいました。
水神社の拝殿と狛犬です。
御神木のクスノキの大木です。
水神社の先の信号の20mほど先右手に「明治天皇御小休所跡」の石碑がありました。
石碑から約6分ほど歩くと工事中の横断歩道橋があり、その先に左に入る道がありました。旧東海道は県道396号線から分かれ、この道を行きました。
そも道は何の特徴もない普通の市街地道路でした。
県道から分かれて約3分、変則的な十字路を右折すると、ほどなく県道396号線に戻りましたが、その交差点右手には、常夜灯と石の道標がありました。
道標は風化してよく判読できませんでしたが「左東海道」と刻まれているようです。
常夜燈は慶応元年に建立され、左側面には「町内安全」と刻まれています。
常夜燈の150mほど先の六差路を直進し、JR見延線のガードをくぐり、
左手の「柚木区公会堂」横の鳥居を過ぎると
旧東海道は再び県道396号線から分かれ、今度は右に進みました。
角に立っていた道標によりますと、東海道は、先ほど通った変則的な六差路を北に進み、渡船場に向かったようです。どうやら道標もそこに立っていたようです。
県道から分かれ4、5分歩くと左手に秋葉山常夜灯が立っていましたが、ここにも赤い消火栓がありました。
その50mほど先右手に珍しくコンクリート造と思われる祠がありました。
祠から4、5分歩くと水路に架かる橋の手前に「札ノ辻跡」の道標が立っていました。この小さな橋は今でも「札の辻橋」と呼ぶそうです。この辺りに、かって平垣村の高札場がありました。
建物の陰で最初は気づきませんでしたが、大正5年3月に建立された「札ノ辻」と刻まれた石碑も立っていました。
「札ノ辻跡」から1分少々歩き、「富士大橋通」との交差点を過ぎると、
富士本町通はアーケードのある商店街でした。旧東海道は直進ですが、この交差点を右折すると、JR富士駅に至ります。
商店街を過ぎ、右手の水路沿いに3、4分歩くと、右手の少し奥まったところに「本市場の一里塚跡」の石碑が立っていました。江戸から35番目の一里塚です。
「一里塚跡」から2分弱歩くと、旧東海道は三度県道396号線に合流しましたが、左角に「間宿 本市場」の道標が立っていました。吉原宿と蒲原宿にあり、間の宿として多くの茶屋が立ち並び多くの旅人で賑わいました。
県道396号線に合流した旧東海道は、すぐ県道から離れ斜め左に進み約2分、中央分離帯のある広い道路にぶつかりました。
道路は前方に続いていましたが、中央分離帯で分断されていました。中央分離帯の中には「旧東海道跡地」と書かれた標柱が立っていて、手前にある看板には、かっての旧東海道の位置が描かれていました。
時刻は12時半を過ぎたところです。ちょうど左手にイートインのあるパン屋さんがありましたので、ここで昼食にしました。しかしこのパン屋さん人気店らしく、駐車場には多くの車が止まり、店先には行列もできていました。
つづく



































