東木戸跡」の直ぐ先左手に「諏訪神社」がありました。諏訪神社はもともと富士川の河口に近い「六本松」辺りに、保元年間(1156年頃)に建てられた御宮に始まります。富士川はしばしば氾濫して付近の住家や農作物に被害を与えていたため、「長野県上諏訪大明神」の御分霊を勧請して、六本松の池の畔に「諏訪明神宮」を創建し水難守護神としてお祀りしてきました。その後も水害が続いたため、元和6年(1620)の水害の折、現在の地に遷座し、本社、拝殿、籠堂、玉垣等を造営しました。

 

    

諏訪神社から1分強歩くと左手の路地の入口に「北条新三郎の墓」と刻まれた石柱と、「北条新三郎の碑」と書かれた案内板がありました。「北条新三郎」は「北条早雲」の孫で、永禄12年(1569)12月、第五次川中島の戦いを終えた武田軍が、武田勝頼を総大将として襲来し、同日中に落城してしました。この結果、北条綱重(新三郎)他城将は悉く討死しました。

 

    

「北条新三郎の墓」の石柱から40m程先右手に赤い鳥居の小さな祠の前に「一里塚」と刻まれたまだ新しい石柱が立っていました。最初の一里塚は元禄12年(1699)の大津波で流失して、宿の移転に伴ってここに移されました。

 

    

「一里塚跡」から1、2分歩くと丁字路があり、左折しました。今までほとんどまっ平らな道を歩いてきましたが、左折した道はかなり急な上り坂でした。炎天下のもときつい上りでした。

 

    

休みながら6、7分で坂を上りきると、東名高速道にぶつかり、左折すると東名高速道を横断する橋がありました。

 

橋の上から下り方向を見ると、神原トンネルが見えました。

 

橋を渡りきると正面に「富士市」の標識が立っていました。長かった静岡市ともお別れです。

 

    

しばらくという名高速道に沿って歩いていると、旧東海道は左にカーブし、今度は下り坂になりました。

 

眼下には、富士市の集落が見えてきました。

 

 

坂を下り始めてすぐ、左手の山裾に3体の道祖神が立っていました。旧街道を歩いている実感がする風景です。

 

    

曲がりくねった下り坂を約6分ほど下って行くと、Y字路に出ましたが、ここは右に行きました。

 

    

右折するとすぐ、右手に「秋葉山常夜灯」と大きな石碑がありました。石碑には「聳岳雄飛」と刻まれていました。常夜灯は嘉永4年(1851)の建立で、石碑は昭和45年の土地区画整理事業を記念して建てられたものです。

 

しばらくすると前方に東海道新幹線が見えました。

 

    

旧東海道は、この新幹線の下を通っていて、ガードのコンクリート壁には「1963-8」の刻印がありました。1964年10月の第1回東京オリンピックの開催に合わせて建造された新幹線の工事の跡です。

 

新幹線のガードを出て約1分で、先ほどのY字路で分かれた道と再度合流しました。

    

さらに約3分ほど歩くと左手にスマートなデザインの常夜燈と「宇多利神社」と刻まれた石柱が立っていました。

 

神社はこの200mほど先にあるので行くのは諦めました。

 

スマートな常夜灯の直ぐ先に、小さいながらも風格ある昔ながらの秋葉山常夜灯が立っていました。

 

秋葉山常夜灯から3分強歩くと丁字路になり、右折しました。

 

    

右折した先は「小池川」に架かる「小池橋」になっていて、橋の下の小池川は渓谷風になっていました。

 

「小池橋」から約2分、旧東海道は丁字路に出会い、右は東名高速道のガードになっていました。

 

    

旧東海道は右折してガードをくぐりますが、交差点の左角に「実相院寺標」と呼ばれる大きな石碑が立っていて、その隣には「薬師如来」と刻まれた小さな仏塔も立っていました。

 

    

ガードの先には案内図と「中之郷」と書かれた道標が立っていて、ベンチもありましたのでここで一休みしました。

 

旧東海道はここからさらに下って行きました。

 

    

人休みの後歩きだしてから1、2分、右手の赤い消火栓の隣に、こじんまりとした常夜灯が立っていました。文字は消えていましたが、多分秋葉山常夜灯だと思います。

 

常夜燈から2、3分歩くと十字路になりましたが、ここは左折しました。

 

庄屋さんだったのでしょうか、土蔵を持つ大きなお屋敷がありました。

 

    

そのお屋敷の30mほど先に、ここも赤い消火栓の横に秋葉山常夜灯が立っていました。火除けの神様であ秋葉山と消火栓はよくマッチします。

 

十字路から3、4分歩くと左手の路地の角に「南無大悲観世音菩薩」と刻まれた古い石柱が茂みの中にありました。

 

    

石碑の約2分先「富士川第一小学校」の前で旧東海道は大きく右にカーブし、その約200mほど先で今度は左にカーブしました。

 

    

       西側                東側

曲がり角には、旧東海道には珍しく、一里塚が昔の姿で残っていました。「岩淵一里塚」です。

 

    

そこには「史跡 一里塚」と刻まれた石柱と、「岩淵」と書かれた道標が立っていました。江戸から数えて37番目の一里塚です。東側の塚には榎が植えられていましたが、虫害のため昭和42年に枯れたため、その後2代目が植えられたものです。

この地は岩淵村と中之郷村の村境で、付近には岩淵名物「栗の粉餅」を売る茶店が建ち並んでいたそうです。

 

    

「岩淵一里塚」から2分強、左手の寺院「新豊院」の入口に「下水築造記念碑」が立っていました。

 

    

記念碑から約2分歩くと旧東海道は右にカーブしますが、ほどなく左前方に黒塀の屋敷が見えてきました。条件が良ければ道路の先に富士山が見えたのですが。

 

側溝の蓋に「東海道ルネサンス 岩淵のレリーフがはめ込まれていましたが、見落としてしまいそうでした。

 

屋敷の角にも秋葉山常夜灯が立っていました。本当にこの辺り秋葉山常夜灯が多く立っていました。

 

    

岩淵は蒲原宿と吉原宿の中間に位置し「間の宿」としての役割を果たしていました。この屋敷は、間宿岩淵の「旧小休本陣」を務めた「常盤家住宅主屋」です。

この建物の特徴は、農家と町屋の形態を併せ持った一般の民家には見られない造りです。通り庭(土間)と前土間を併用し、居室部分は並列6間取り型に、さらに2間増やした特徴ある間取りです。

建物の内部は大名など賓客が座った「上段の間」と呼ばれる部屋がありました。

 

    

常盤家住宅の50mほど先は、枡形のような道路形状になっていました。

 

    

桝形から約2分歩くと、丁字路になりましたが、左手の案内標識によるとここは右折するようでした。

 

丁字路を右折すると下り坂になり、前方には富士川が見え、さらにその先には富士市の中心市街地が見えてきました。

 

50mほど坂を下ると、旧東海道は左にカーブしY字路になりますが、旧東海道は右の道を下って行きました。

 

    

ここで少し寄り道をして、左の道を100mほど行くと、「身延道道標」と呼ばれる大きな道標がありました。富士川に沿って上って行くと身延山に至ります。

 

    

Y字路に戻り坂を下ると、旧東海道は右に曲がり、富士川の堤防上の道路に出て、さらに右折すると、

 

富士川橋の袂にたどり着きました。

 

つづく