「細井の松原」を過ぎるとしばらく国道1号線の歩道を歩くことになりました。

 

    

「細井の松原」から1分強歩くと左手に小さな常夜灯の奥にお堂のような建物があり、てっきり地蔵堂か観音堂かと思いましたが「簡易老人憩いの家」でした。

 

    

「老人憩いの家」から4、5分、袖師生涯学習交流館の前に「袖師ケ浦」と書かれた道標が立っていました。ここは「袖師町」でここから500mほど東に行くと「袖師港」があります。かってはこの辺りが海岸線だったのでしょうか。

 

道標の2分強先で、旧東海道(国道1号線)と県道338号線とが立体交差していました。左に行くと東名高速道、右に行くと清水港です。

 

ようやく国道1号線の道程で日本橋まで175kmの所まで来ました。

 

桜えび直売所」の看板がありました。今年は桜エビが豊漁だとニュースになっていますが、由比に近づいてきたことが実感できます。

 

松並木の名残でしょうか、松の木が一本ポツンと立っていました。

 

「袖師ケ浦」の道標から10分弱、右手に創業1916年創業の老舗定食屋さん「榊屋」がありました。さすが人気店だけあって駐車場はほぼ満車でした。

 

「榊屋」の1分強先で「庵原川」に架かる橋を渡り、

 

    

さらに5、6分歩くと、左手に「東光寺」がありました。

天文年間(1532-1554年)温仲和尚が現地より北方の地に創建し、その後現在の地に移りました。本尊の薬師如来(秘仏)は行基作と伝わります。
山門は「勅使門」と呼ばれていますが、江戸時代京都よりの勅使が東海道を江戸に下る際、興津川の川止めで急遽東光寺に泊まる事になりました。帝の御名代一行は、門塀の建造を許された格式の高い屋敷でないと宿泊できませんでしたが、当時の東光寺には山門がありませんでした。そこで急遽村人総出で丈夫な木を格子状に組み合わせて、門柱に括り付けて急ごしらえの門扉を造り、逗留期間中一行を守ったと伝えられています。

以来東光寺の門扉は必ず格子で作られているそうです。

 

東光寺から約8分歩くと、左手に「横砂・延命地蔵堂」がありました。

この地蔵尊は、「病は治せるが寿命は延ばせない」との無理な願いを叶えてくれるそうです。

 

    

延命地蔵堂の前で国道1号線から分かれ、右の住宅地の中の道路を進み、JRの踏切を渡るとすぐ先で左に曲がりました。

 

    

左折してから1分ほど歩くと前方に「静清バイパス」の高架があり、高架下を過ぎると、先ほど分かれた国道1号線に合流しました。

 

国道1号線を1、2分歩くとY字路になりましたが、旧東海道はそのまま国道を直進です。

 

さらに5分弱歩くと「興津坐魚荘」の看板がありました。

「興津坐漁荘」は、西園寺公望公が政治の最前線から引退した後、別邸として1920年に興津の旧東海道沿いに建てられたものです。
老朽化のために取り壊され、愛知県犬山市の明治村に移築されましたが、復元工事により、「静岡市坐漁荘記念館」として2004年から無料で一般公開されています。建物は木造2階建ての京風数寄屋造りで、図面を基に忠実に再現されています。

 

    

管内では甘味処が営業しており、抹茶セットが600円でいただけます。

 

「興津坐漁荘」から2分弱歩くと、左手に石碑とその先に「清見寺」の山門が見えてきました。

 

    

手前にある石碑には、「高山樗牛假寓之處」と刻まれていて、隣には漢詩が掲示されていました。「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」と読めました。

「高山樗牛」は、明治の文芸評論家で文学博士です。ここに石碑があるのは、「高山樗牛」が晩年清見寺の門前の三清館で静養した記念です。

 

    

「清見寺」は、「巨鼇山清見興國禅寺(こごうざんせいけんこうこくぜんじ)」という臨済宗妙心寺派の禅宗寺院です。1000年以上の昔に設けられた「清見ケ関」に付属する寺院として、その歴史が始まったとされています。

 

清見寺の山門の向かいに「大正天皇在東宮海水浴御成道」と刻まれた石柱が立っていました。

後に大正天皇となられる嘉仁皇太子殿下は、明治22年(1889年)2月に東海道線が開通し興津駅が開業した事で、同年7月に興津清見寺に行啓された際に清見潟で海水浴を楽しまわれました。
興津清見潟は海水浴場として全国に知れ渡りましたが、現在は「清水清見潟公園」となっていて、その沖合は埋め立てられ工場地帯となっています。

 

    

「清見寺」から約6分、左手に「興津宿西本陣跡」の石碑がありました。

興津宿には本陣が2軒あり、西本陣は手塚家がつとめていました。寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)まで東本陣の市川家と月番で営んでいました。

 

    

「西本陣跡」の30mほど先右手に「脇本陣水口屋跡」がありました。「水口屋」には、明治以降は西園寺公望や伊藤博文など、日本の政治経済の大物たちが数多く宿泊しました。現在は、敷地内にある水口屋ギャラリーを開放しています。

 

    

「水口屋」から1分弱歩くと、左手に「興津宿東本陣跡」の石碑がありました。東本陣は、教敬山耀海寺を開いた市川法清を祖にもつ市川家が務めました。延宝8年(1680)興津宿の大火では、自分のところも焼けたというのに300両以上の大金を宿の人々に無利息で融通したそうです。

 

「東本陣跡」の50mほど先に「興津宿公園」があり、中には各種の展示物、モニュメントがありました。

 

興津宿は、東は沢端川西は清見寺までの約800mの長さで、天保14年(1843)には、本陣は2軒、脇本陣2軒、旅籠は34軒でした。西に向かう旅人は、峠を超えて一息つくのが興津宿であり、東に旅する人は、峠の難所を超え由比宿に至るために旅装を整える場所でした。

地名の由来は、「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことによります。

 

公園のほぼ中央に「薄寒桜」の木が立っていましたが、これは第61代全米桜の女王が興津宿親善訪問された時、記念植樹されたものです。初代の女王は、1948年に選出されたそうです。

 

つづく