上原堤のすぐ先はY字路になっていて、旧東海道は左の道ですが、

 

そのY字路の左の道はすぐ橋になっていて、橋のたもとに「久能寺観音道」と刻まれた古がい道標が立っていました。

この道標は安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進によって建立されたもので、この久能寺観音道はここ平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことです。

久能寺は、」もともとは久能山にありましたが、武田信玄が駿河攻めの根拠地として久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の地に移築されました。久能寺は明治維新になり廃寺となりましたが、明治16年山岡鉄舟が再興し、久能寺を鉄舟寺と改称し現在にいたっています。

 

道標から約7分歩き、今度は地下道や跨線橋ではなく、踏切で東海道本線を渡りました。

 

踏切から約4分で信号のある大きな交差点に着きました。旧東海道は直進ですが、

 

この交差点を左折して、50mほど行くと右手に赤い鳥居と小さな池がありました。この池は「姥ケ池」と呼ばれる池で、次のような伝説があります。

「今から千二百年ほど昔、この池のあたりに、金谷長者というお金持ちが住んでいました。神仏にお祈りして男の子を授かりましたが、ある年ひどい咳が流行してこの子も患いました。乳母はこの池辺りの弁財天に祈願して小児の代わりに入水して死にましたが、これにより小児の病はよくなりました。
長者は姥の子育てに感謝して池のふちに社を建て霊を祭りますと池の底から泡が出始めました。この池のほとりに立って、「姥かいな」と呼べば、それに答えるかのように泡が出ては淋しく消えていくようになりました。それからは姥ヶ池と呼ばれ、ひどい咳に病む子ども達がこの社にお祈りするとたちまち治ると言い伝えられました。


交差点から1、2分歩き、大澤川に架かる「金谷橋」を渡りました。

 

    

橋を渡ると橋の両側に「追分」と書かれたモニュメントとその説明板が設置されていました。昔からこの辺りは、東海道と清水湊への道「志ミづ道」の分岐点であることから「追分」と呼ばれていました。

 

隣には、「元追分」と書かれた道標も立っていました。

 

    

「金谷橋」から1分弱歩くと、右手に塀の陰になり見落としてしまいそうな場所に「都田吉兵衛の供養塔」が立っていました。

都田吉兵衛は、清水次郎長の子分「森の石松」を殺した侠客で、次郎長によってここ追分で討たれました。吉兵衛の菩提を弔う人も稀なのを憐み、里人が供養塔を最後の地に建立して吉兵衛の霊を慰みました。

 

供養塔から約3分、右手に「追分羊羹」で有名な「追分羊羹本店」がありました。事前に調べていたため迷わず店に入り、追分羊羹を買いました。

東海道の名物として300年の伝統を持つ羊かんで、徳川将軍家光の時代に箱根山中で倒れた明の僧を介抱した際に、僧から作り方を教わったことが起源とされ、餡を竹皮で包み、蒸しあげる昔ながらの味を守り続けています。徳川十五代将軍慶喜にも好まれてたそうです。

 

店の角に「是より志ミづ道」と刻まれた道標が立っていました。先ほどの金谷橋の所にも「追分」の説明がありましたが、ここが東海道と志ミづ道との分岐点のようです。

 

県道197号線との交差点(入江3丁目)を横断してから2、3分

 

    

写真の専門店タケムラフォトの建物の陰に「江尻宿木戸跡」の石碑が立っていました。普通なら気づかず通り過ぎてしまうところでした。ここは江尻宿の西の入口でした。

 

    

さらに2、3分歩くと、旧東海道は左にカーブし、北上しました。歩道は緑色にペイントされ、東海道のサインも描かれていました。

 

左にカーブしてから1分強で、「稚児橋」と呼ばれる橋に着きましたが、

 

    

橋の手前を川沿いに左折するとすぐ先に大きな説明板がありました。それによりますと、ここは「船高札」と呼ばれる場所で、江戸時代の初めの頃、河川交通の重要な場所であった巴川畔のこの場所に「船御高札」が立てられていたそうです。

全7条あったそうですが、その内容は

一、公儀のお船は無論、諸国回船共すべてに暴風などの時には助け舟を出して難破させないようにすること。

一、船、破損するときは、近くの浦の人達は力を合わせ、荷物、船具等を引き上げる事。褒美として海船には浮いていた荷物は二十分の一、沈んだ荷物は十分の一を、川船には浮き荷物の三十分の一、沈んだ荷物は二十分の一を引き揚げたものに遣わす。

のような内容でした。

 

この橋の親柱の上には河童の像が立っていました。この橋には逸話があり、

その昔、徳川家康の命令で初めて巴川に橋が架けられ、橋が完成し、その渡り初めの際、どこからともなくあらわれて橋を渡っていった男の子がいました。それが「巴川に住むカッパ」として伝えられています。このことからこの橋を「稚児橋」と呼ぶようになったそうです。

 

巴川は豊かな水をたたえていました。

 

旧東海道は、「稚児橋」の先の五差路を右折しますが、左折して「魚町稲荷神社」の大クスノキを見に行きました。

 

左折すると前方にそのクスノキが見えました。静岡市指定の保存樹木になっていました。

稲荷神社は右に見える鳥居の奥にあります。永禄11年(1568)駿河に攻め入った武田信玄は、翌年この奥にある江尻小学校の敷地に江尻城を築き、その後当時の城将穴山梅雪が本格的な城に改築しました。その時梅雪は「一村一郷に鎮守あり、一家に氏神あり、どうして一城に鎮護の神がなかろうか」と言って、この地に社殿を造営したと云われています。

 

交差点に戻り旧東海道を歩き始めましたが、古い商店街は再開発され共同ビル化され、その町並みは全く昔の面影をなくしていました。

 

    

交差点から1分少々歩くと、右手に江尻宿の説明板がありました。

今川氏の頃から、江尻は三日市場として栄えていましたが、武田信玄が江尻城を築くことにより城下町として栄えました。慶長6年(1601)東海道を定めるにあたり、それまでの北街道から今の銀座通りを東海道とし、この地を江尻宿としました。江尻宿には本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠50軒ほどが建ち並んでいました。

ちなみに「江尻」とは巴川の尻(下流)の事を指します。

 

    

説明板の30mほど先に「寺尾本陣跡」の石柱がありました。

寺尾家は、もともと今川家の家臣でしたが、今川家没落後は武田家に仕え、姓を寺尾と改め、武田家滅亡の後江尻に移住しました。その後徳川家康から「伝馬朱印状」を与えられ、この地に本陣を構えました。当主は名字帯刀を許され、代々寺尾與右衛門を名乗ってきました。寺尾本陣の建物は昭和20年の空襲で焼失してしまいました。

 

    

寺尾本陣跡から4、5分歩くと江尻宿の道標が立っていましたが、

 

    

その先の交差点を左折して、さらに7、8分歩くとJR清水駅前の交差点に着きました。旧東海道は直進ですが、右折すると清水駅で、交差点から駅ビルを見ることができました。

 

これまで古い家屋を見ることができませんでしたが、駅前の交差点から2分弱歩くと、久々に往時を感じさせる格子戸のある建物がありました。しかし表札も屋号も標示されてなく、何の建物かは不明でした。

 

    

古い建物の次の信号のある交差点辺りに「東木戸跡」があったようなのですが、残念ながら、説明板や石碑等その痕跡を示すものを見つけることはできませんでした。

 

    

さらに150mほど先の交差点辺りに「江尻・辻一里塚跡」があるはずなのですが、残念ながらこれも見つかりませんでした。

 

一里塚があったと思われる交差点から10分弱歩くと、旧東海道は国道1号線と合流しますが、その角に松が一本立っていて、その下に数基の石碑がありました。ここは「細井の松原」と呼ばれる場所で、

慶長9年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう、樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して、街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612)に完成したと伝えられています。元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶屋があったと伝えられています。
当時の細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまい、現在は、植樹されたものだそうです。

 

    

松の木の下には新旧2基の道標が立っていました。

 

また「無縁さんの碑」と刻まれた石碑もありましたが、これは昭和19年、松根油採取のため伐採された際、大量の人骨が出土したそうです。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されますが、町内の人は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めました。

 

つづく