いよいよ安倍川を渡ると本日の終着地点「府中宿」です。
写真ではよく分かりませんが、「安倍川橋」の向こうに富士山が見えました。かなり大きく見えます。
明治4年安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置することになっりましたが、秋冬期は川の流量が少ないため、この期間使用するための木製の仮橋を仮設し、明治7年に全長509mの本設の木橋が完成し、「安水橋」と名付けられました。
明治36年に架け替えられたのち、大正12年(1923)7月23日に全長490.9mの鉄橋(トラス橋)に架け替えられ、「安倍川橋」と改称されました。今年でちょうど100年目を迎える橋です。平成17年に、土木学会より「平成17年度選奨土木遺産」に選出されました。
橋の途中で下流側を見ると新幹線が通過中でした。
府中宿(静岡市)の街並みも近づいてきました。
「安倍川橋」を渡り、50mほど行くと、右手に「安倍川の義志の碑」と呼ばれる黒くて大きな石碑が立っていました。碑文には「難に臨まずんば忠臣の志を知らず。財に臨まずんば義士の心を知らず。」と刻まれていました。
元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が安倍川を渡ろうとして、着物を脱ぐ際財布を落としてしまいました。それを拾った川越人足の喜兵衛が旅人の後を追い、宇津ノ谷峠で引き返してきた旅人に渡しました。喜んだ旅人は礼金を渡そうとしましたが、どうしても受け取りません。そこで代わりに奉行所から褒美の金を渡したのです。昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、この地に碑が立てられたのです。
「義士の碑」の隣に「安倍川餅」で有名な「石部屋」がありました。ここも本日の目的地でしたが、「丁子屋」に続きここも時間切れでした。売れきれ次第営業終了です。
「石部屋」のすぐ先はY字路になっていて、旧東海道は県道208号線から分かれ右の道を行きました。

Y字路の角はポケットパーク(弥勒緑地)になっていて、道標や石碑が立っていました。
道標によると、この辺りは「弥勒」という地名のようですが、その由来の説明看板がありました。
この辺りがまだ安倍川の河原だったころ、江戸時代の初め慶長年間に、「弥勒院」という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになりました。この餅を「安倍川餅」といい、これが「弥勒町」の名の由来になりました。
「明治天皇御小休所址」碑や「由井正雪公墓址」碑もありました。
公園の一番奥(北)弥勒交番の横に「安倍川架橋の碑」がありました。碑文は読めませんでしたが、明治7年に多額の私財を投じて建設した「安倍川橋」の顛末を、後世に伝えるため明治41年に建てられたものです。
また弥勒交番の辺りが「安倍川の川会所跡」です。
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがあります。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければなりませんでした。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが「川会所」です。「川会所」には、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃金の取り扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当たっていました。
この川会所は間口6間、奥行き4間半であり、5人位の裃を着た役人が務めていたといわれています。
川越町を過ぎ新通りに入ると、静岡新通郵便局の手前右側に赤い鳥居の「伏見稲荷神社」がありました。
「伏見稲荷神社」から1分少々歩くと、信号のある交差点の右前方に「秋葉神社」もありました。
「秋葉神社」から3分強歩くと、片側2車線の広い「ときわ通り」を超え、
さらに2、3分歩き「ぶんせん鍼灸治療院」の緑の看板のある交差点を右折しました。
右折すると少し道路の雰囲気が華やかになり、歩道には「東海道」の文字と松の絵が描かれていました。
右折してから約3分、今度は「七間町通り」との交差点を左折しましたが、左折する手前右側に「静岡姉様」についての説明石がありました。
姉様人形の名で親しまれるこの人形は、静岡の代表的な人形で、江戸時代に駿府城を中心とした城下町で誕生した人形です。白髪を結いあげ、千代紙の着物を身にまとっており、背高な容姿、後姿のあでやかな美しさが特徴です。
左折した通りは、「七間町通」と呼ばれていますが、左折してすぐ右手に「七間町」の由来について説明したモニュメントがありました。
今川時代の駿府の豪商友野氏が友野座の七座の長として、この地に屋敷地を置き支配していたことが「七間(軒)」の由来だとする説です。また道路幅が7間あったとする説もあります。
奈良時代のこの地域は「安倍の市」、鎌倉時代は「連雀町」と呼ばれ当時から駿河の国の商業の中心でした。江戸時代初期慶長14年(1609)、徳川家康が駿府96ケ町の町割りをした際に七間町が誕生しました。
江戸時代には駿府の宿場としては伝馬町が栄えたが、明治22年(1889)に鉄道の東海道線が開通するまで静岡でもっとも栄えた繁華街は七間町でした。
その隣に「府中宿」について説明した石板がありました。
府中宿は、江戸から19番目の宿場で、東見付は横田町、西見付は川越町にありました。天保14年(1843)時点では、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒、家数3673軒、人口14071人の東海道最大規模の宿場でした。
家康は駿府のまちづくりの際、城下町を通る東海道を「本通り」(現県道208号線)から「新通り」に変更しました。東海道を西から東に進む時、富士山を背景にした駿府城の天守閣が見られるようにとの意図があったとも云われます。
休日ということもあり、七間町通りは歩行者天国になっていました。
七間町通りを6分ほど歩くと、左手に「伊勢丹」がありましたが、交差点角に「札之辻」に関する道標や石碑類がありました。
「札之辻町」の由来は、江戸時代ここに高札場があったことによります。昭和20年、札之辻町は、呉服町、両替町、七間町の一部になりましたが、札之辻の地名は今でも市民に親しまれているそうです。
札ノ辻を右折する頃になると、夕暮れ近くなり、夜の繁華街の雰囲気が出てきました。
札之辻址を右折してから1分ほどすると、「青葉シンボルロード」との交差点に着きました。
左を見ると、静岡市庁舎がそびえていました。
「シンボルロード」を横断して2、3分、交差点の先にJR静岡駅が見えてきましたが、こののま駅に向かわず、左折してもう少し距離を稼ぎました。
左折して約2分で五差路に着き、横断歩道を渡り右折しました。
この辺りはかって「江川町」と呼ぶれていたようです。名前の由来は、伊豆国韮山の代官を務めた江川家の先祖が天正年間にこの地に住まいしたことによります。現在は正式の地名としては残っていませんが、交差点や通りの呼称として今に伝えられています。
交差点を渡って30mほど先に「西郷隆盛」と「山岡鉄舟」が会見した場所がありあました。静岡市の指定文化財(史蹟)にもなっています。
慶応4年(1868)江戸に向け進軍中の「西郷隆盛」と幕臣「山岡鉄舟」の会見が、ここ松崎屋源兵衛宅で行われ、徳川慶喜の処遇、江戸城の明け渡し、幕府の軍艦・武器の引き渡しなどが合意されました。これにより江戸城の無血開城が実現しました。
さらに1、2分歩くと、黒い標柱が2本立っていました。
「上伝馬町本陣・脇本陣跡」と「駿府貫目改所跡」です。
上本陣は望月家が脇本陣は松崎家でした。
「貫目改所」とは、江戸時代、幕府が街道往来の荷物を検査するために、問屋場に併置した機関のことで、輸送の円滑を図るための荷重制限は江戸初期からあり、一駄30~32貫目を標準としました。正徳2年(1712)東海道の品川・駿府・草津、中山道の板橋・洗馬に設けたのが最初です。
※一駄とは馬1頭に背負わせる荷物の量のことです。
旧東海道は「本陣跡の標柱」の先の「伝馬町交差点」を直進ですが、本日はここまでとし、右折してJR静岡駅に向かいました。
旧東海道歩き旅15日目完歩です。









































