「内谷新田交差点」から少し歩くと、松並木が続いていましたが、「岡部宿の松並木」と呼ばれているようです。
かなり見ごたえのある松並木でした。
「内谷新田交差点」から約10分で岡部宿の入口に着きました。電柱の地中化が進み、街灯も新しくなり、きれいな街並みでした。
さらに約1分、信号のある丁字路に着きましたが、左角に「かど万米店」がありました。大正元年創業の老舗の米屋さんで米の他、味噌、麹その他食品も扱っています。その5代目の娘さんが「おむすび専門店 結」を「かど万」の左横で開業されましたが、かなりの人気のようです。
ちなみに「かど万」の名前の由来は、初代の名前が「万吉」で角に店を構えたからだそうです。
「かど万」から1、2分歩くと左手に「五智如来広場」があり、小さな常夜灯も立っていました。
公園の奥に広場の名前の由来である「五智如来」が祀られていました。
元は誓願寺の境内に安置されていましたが、寺が移転したためこの地に移されました。
見たときは気づきませんでしたが、五智如来は地元産の三輪石で2組作られていました。後列の1組目は、宝永二年(1705年)に田中城の家老である脇田次郎左衛門正明が寄進したもので、前列の2組目は、明治の中期、鬼島の森川重蔵と静岡市寺町の藤田猪野三郎が作ったものです。後列の像は前列の像に比べて小さく、前列の後ろにすっかり隠れてしまっていたようです。
五智如来像には言い伝えがあります。
宝永2年、田中城主には、うまく話しのできないお姫様がいました。殿様と奥方様にとって、このことが大きな悩みでした。そんなある日、静岡の宝台院で徳川家の奥方に相談すると、「岡部宿にある誓願寺の御本尊である阿弥陀さまにお願いするといいよ」と教えてくれました。そこで早速、田中城の奥方は家老を連れてこの寺に行きお祈りしました。お参りを続け、とうとう最後の日、お姫様は自由にお話ができるようになり、数年後には立派な大名のもとへ嫁ぎました。
殿様は、このことにいたく感激し、誓願寺へ田畑を寄進し、家老の脇田次郎左衛門正明は、この三輪石でつくった五智如来像を寄進したということです。
「五智如来公園」の先の十字路を右折して、すぐ左折すると石畳の道になっていました。その左角は「長嶋酒店」ですが、店先には酒ではなく野菜が並んでいました。その中のトマトが最近見たこともないほどの真っ赤で、とても美味しそうだったので思わず手に取って店内に入りました。店内では酒屋ですので地元の日本酒を中心に売られていましたので、辛口の純米吟醸「初亀」も購入してしまいました。
※トマトは本当に美味しかったです。
酒屋から約3分、小林製畳店前の民家の植え込みの中に「問屋場跡」の説明板がありましたが、事前に調べていないと見落としてしまいそうな場所でした。岡部宿にはここ「加宿内谷」と「岡部本町」の2か所にあったそうです。
「問屋場跡」から約2分、右手の路地の角に、「光泰寺 入口」と書かれた立て看板と、光泰寺に安置されている「聖徳太子像」の説明板がありました。
この聖徳太子像は、「木喰五行菩薩」という「木喰戒」を授けられた僧が、寛政12年(1800)岡部に2か月間滞在し、その間に6体の仏像と書画を残していて、そのうちの1体が「聖徳太子像」です。
光泰寺は、この路地の奥の山の右手山麓にありますが、少し距離があるので行きませんでした。
その少し先に歴史と風格を感じさせる民家が建っていました。
また民家の軒下にサッカーボールを模した飾りがありました。やはりサッカー王国静岡です。
光泰寺入口から約2分、旧東海道は左に曲がり県道208号線(通称:つた街道)に接近するとすぐ右に曲がりました。
右折してから30mほど歩くと、右手に「正應院」の門柱が立っていて、その先に参道が続いていました。
「正應院」は、岡部宿エリアで最も新しく、大正13年に開創された寺院で、境内には、7年の歳月を費やして建立された東海道で唯一の見事な「多宝塔」がありました。
「正應院」の門柱の斜め前の空き地に「高札場跡」の説明板がありました。
「高札場跡」の50mほど先の右手奥に「佐護神社」の鳥居と石段が見えました。立石神社例大祭の御神輿の御旅所の守護として古来から祀られている神社です。
旧東海道は「佐護神社」のすぐ先で左にカーブしますが、その角に久しぶりに見る格子窓のある昔風の民家がありました。
その民家の30mほど先に、橋とは気付かないような小さな橋がありましたが、そこにある説明板によりますと、この橋は「小野小町の姿見の橋」と言うそうです。その名前の由来は、
小野小町が晩年東国に下る途中岡部宿に泊まりました。小町はこの橋の上に立ち止まり、夕日に映える西山の景色に見とれていましたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていました。そして過ぎし日の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだといいます。そこから宿場の人々はこの橋を「小野小町の姿見の橋」と呼ぶようになったとのことです。
「小野小町の姿見の橋」のすぐ先で旧東海道は県道208号線に合流しましたが、その丁字路の先に先ほど買った日本酒の醸造所である「初亀醸造」がありました。
「初亀醸造」から数十メートル先右手の床屋さんと隣に「問屋場跡」がありました。
岡部宿に2つあった問屋場のうち「岡部本町」の方です。
さらに数10メートル先にきれいに整備された岡部宿公園があり、
その隣に「岡部宿本陣址」があり、門を入ると広場になっていました。
岡部宿には、「内野本陣」、「仁藤本陣」の2つの本陣と2つの脇本陣がありました。ここは「内野本陣」の跡です。「内野本陣」は明治になるまで180年間内野家が代々引き継いできました。当時の建物は現存していませんが、平成22年建物跡が見つかったため、残されていた図面をもとに、建物の間取りを平面表示し「内野本陣史跡広場」として整備されました。建物坪数174坪、畳数129畳半でした。
当時の井戸跡も残されていました。
「史跡広場」の隣は観光施設風になっていて、
展示研修棟、物産館、ギャラリー、CAFE、歴史資料館などが建っていました。本当はここのCAFEで昼食にしたかったのですが、時刻が1時半ごろになりそうなので、残念ながら先にモスバーガーで済ませてしまいました。
旧東海道の街道側から見た「大旅籠柏屋歴史資料館」で、国指定の登録有形文化財です。
「柏屋」の建物は1820年と1834年の2回の火災により焼失し、現在の建物は1836年4月に完成したとの記録が残されています。延べ床面積はちょうど100坪で、内部は当時の姿が残されています。ちなみに「本陣史蹟広場」横の諸施設は「柏屋」さんの経営施設のようです。
「大旅籠柏屋」の向かいも建物が「仁藤本陣跡」のようですが、表示がなくて確認できませんでした。
「柏屋」の30mほど先で、旧東海道は県道208号線から左に分かれました。分岐点の手前の道標には、「←宇津の谷」の表示がありました。これからが本日のメインエベント「宇津の谷越え」です。
つづく



































