菊川の街並みを抜けるとすぐ「東海道菊川坂」「上り口」と書かれた木柱が2本立っていて、その先に石畳の道が続いていました。

 

そばに案内板があり、それによりますと、

この石畳は、平成12年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。したがってつい最近発見されたものです。旧東海道の中では箱根に次ぐ2例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けている遺構です。

「菊川宿」は、江戸時代には西の「日坂宿」東の「金谷宿」の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。

 

    

石畳とは言っても、丸い石をかなり隙間をあけて敷き詰めてあるため、注意して歩かないと踏み外し捻挫する恐れがありました。

これは、敵軍の進軍速度を遅らせる目的があったとの説もあります。

 

石畳の上り道を歩き始めてから1分ほどで、後から作られた市道を横断しました。

 

    

市道を横断してから約3分、石畳は再度市道を斜めに横断しましたが、その角に先ほどと同じような看板がありました。

今上ってきた石畳は近隣12か村に割り当てられた「助郷役」の人たちによって敷設されたもので、長さは380間(約690m)あったとも云われています。しかし現在では昭和30年から40年代にかけての工事のため一部破損された所もあり、長さ161m、最大幅4.3mを残すのみとなっています。

 

    

看板の先の石畳は、これまでと違い石の間隔が密で、少し歩きやすくなりました。

 

途中に「旧東海道菊川坂石畳普請助郷役芳名」と書かれた看板があり、多くの名前が記載されていました。これは「菊川坂助郷伝説」として旧東海道22宿の助郷並びに大勢の助郷をもって、平成13年に石畳復元の大普請をした時の参加者指名でした。復元された石畳の長さは611mあります。

 

    

復元された石畳を歩くこと約8分、石畳の最初からだと約13分で菊川坂を上りきると、休憩所がありました。

 

休憩所の脇に「菊川坂石畳 万古不易」と刻まれた石碑が立っていました。「石畳は永遠に変わらない」という意味だそうです。

 

休憩所前の県道234号線を横断し20mほど進むと、左手に「諏訪原城跡」がありました。

 

「諏訪原城」は、天正元年(1573)武田勝頼が築き、城内に「諏訪大明神」を祀ったことから「諏訪原城」の名前が付いたと云われています。天正3年(1575)徳川家康によって攻め落とされた後は「牧野原城」と改名され、武田方の「高天神城」を攻略するための城として活用されました。天正9年(1581)「高天神城」が落城し、翌年武田氏が滅亡するとその役割を終え、天正18年(1590)頃廃城となりました。

 

城跡は広大ですべてを見ることはできませんでしたが、旧東海道近くの「大手南外堀跡」だけ見てきました。幅約5m、深さ3.3m、断面がVの字となる薬研堀です。(薬研堀とは、断面がV字型すなわち「薬研」の形をしている堀のことです)

 

    

「諏訪原城」を跡にしてから5、6分歩くと、前方にまた石畳の入口が見えてきました。今度の石畳は下り坂でした。

 

この石畳は「金谷坂の石畳」と呼ばれ、江戸幕府が「菊川坂」と同じく近郷の集落の助郷に命じ造らせたものです。わずか30mを残す以外は全てコンクリートなどで舗装されていましたが、平成3年に町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されました。

 

看板の横に「すべらず地蔵尊 入口」と刻まれた石柱が立っていましたが、この坂を下って行ったところにあるのでしょうか。

 

坂を下る前に「金谷坂入口」向かいにある「明治天皇御駐輦阯」の記念碑を見に行きました。

明治元年(1868)、王政復古で誕生した明治天皇が「遷都東幸」の途中、ここ「牧野原野立所」で休息、“霊峰富士をお望みになられた“時の記念碑です。

 

「金谷坂」の石畳は復元された「菊川坂」とよく似た造りでしたが、下り坂ということもあり、上りより数段歩きにくかったです。

 

    

「金谷坂」を2、3分下って行くと、赤い幟が数多く立っていましたが、ここが「すべらず地蔵尊」でした。

この地蔵様、六角堂、鞘堂は、町民の手によって据えられたもので、ここの石畳は滑らないという特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うといわれています。

 

    

さらに5、6分下ると左手に「鶏頭塚」の説明板があり、少し入ったところにその「鶏頭塚」がありました。

「鶏頭塚」はその名前の由来となった、「曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(1744年)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑のことです。
巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人で、その教えを受けた金谷の門人たちは、師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺りにこの句碑を建てました。

 

なお、塚の奥に位置する庚申堂は、昔から土地の人々に信仰され、徳川時代の大盗「日本左衛門」がここを夜働きの着替え場所としていたことが言い伝えとして残っているそうです。

 

近くに「庚申塔」がありましたが、塔の上の板には

庚申塔三猿 良きことは大いに広め 悪しきをば 見ざる聞かざる見ざるが 良し」と記されていました。

 

坂を下り終えた所に「石畳茶屋」がありました。

平成6年(1994年)3月に旧金谷町が、旧東海道及び金谷宿の文化や地域文化の伝承などの活動と観光客誘致を図るため、訪れる人達が気軽に立ち寄れ、街道文化に触れながら休憩できる施設として設置した施設です。かなり疲れてきたので一休みしたいところでしたが、先を急ぎました。

 

    

「金谷石畳」を下り始めて約13分で、ようやく金谷坂の東の入口(上り口)に着きました。

 

    

県道473号線を左に少し歩き、県道に沿った市道の坂道を下りました。

 

道端に立つのは道祖神でしょうか。

 

県道を横断してから2、3分、前方に「JR金谷駅」が見えてくるあたりに「不動橋」があり、傍に立て看板が立っていました。それによりますと、

この橋は、江戸時代には「西入口土橋」「金谷大橋」と呼ばれ、金谷宿の西の入口になっていたところです。規模は長さ6間(約10m)幅2間半(約4.5m)の土橋でした。土橋とは、橋桁の上に丸太を組み、その上に小枝を敷き詰め、さらに表面に土を突き固めて作られた橋です。

 

現在午後3時半、JR金谷駅は目の前ですが、日も長くなってきたことですので次の島田宿まで約6km頑張ることにしました。

 

つづく