曲尺手(かねんて)」を過ぎた後も、古い町並みは続きました。

 

「曲尺手」から約4分歩くと、道路は二股に分かれていましたが、手前に手書きの紙の道標があり旧東海道は左の道でした。ここで道に迷うことがないよう地元の人が作成してくれたのでしょう。Y字路を左に行き、湖西市立白須賀小学校・中学校の敷地に沿って歩きました。

 

Y字路から約2分ほど歩くと右手に太平洋が見えてきました。

 

更に1分ほど進むと旧東海道は左にカーブしましたが、右に少し広くなった場所がありました。

 

    

そこは「潮見坂公園跡地」で、石碑が何基か立っていました。潮見坂というだけあって、ここからも太平洋(遠州灘)がよく見えました。

 

    

ここは天正十年(1582)、甲斐(山梨県)の戦国大名・武田勝頼を滅ぼした織田信長が凱旋する時、同盟者であった徳川家康が茶亭を新設してもてなした場所でもあります。また明治天皇が明治元年に東京へ行幸される時、東海道を通り、始めて太平洋をご覧になった場所もこの潮見坂上と言われています。これを記念して公園が造られ、大正14年4月に「明治天皇御遺蹟地記念碑」が立てられました。

そういえば、我々も草津宿を出て初めて見る太平洋(遠州灘)です。これまでは内陸部だけでした。

 

「潮見坂公園跡地」から2分弱進むと、同じような小さな公園があり、

 

    

元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の文化振興に尽くした石川栄五郎らの石碑が数基並んで立っていました。

 

石碑群の隣りに、東海道宿駅開設400年記念として建てられた「おんやど白須賀」と呼ばれる施設で、白須賀宿の歴史と文化に関する資料の保存と活用を行っています。

 

    

「おんやど白須賀」を過ぎると、旧東海道は急な下り坂になりました。

ここは「潮見坂」と呼ばれる坂で、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などにその風景が描かれています。西国から江戸に向かう道程では、初めて太平洋の大海原や富士山を見ることができる場所として、古くから旅人の旅情をくすぐった場所でした。富士山は見ることができませんでしたが。

 

安藤広重の描く「潮見坂」です。

 

    

しばらくすると旧東海道は左に大きくカーブしますが、カーブ地点から遠州灘がきれいに見えました。

 

更に1分強下ると道は二股になっており、旧東海道は右の道です。

 

    

資料によるとこの辺りに「うなひ乃松」と呼ばれる松があるとのことですので、旧東海道から外れ左の道を行きました。1分弱歩くと道路から右方向に砂利が敷いてあり、

 

その奥に石碑が2基立っていましたが、松は見当たりませんでした。石碑の文面も判別できませんでしたが、「うなひ乃松」は文明8年(1476)4月6日、駿河守護職今川義忠公を葬った上に植えられた松のことで、昔から枝一本折っても怒りをふるったとおそれられていた松だそうです。

 

「潮見坂」の最後の下り部分から見える遠州灘は、安藤広重の絵のようでした。

 

    

「潮見坂」を下りきると丁字路になっていて、旧東海道は左折して進みました。丁字路の右角に立つ道標には「白須賀宿 潮見坂下」と書かれていましたが、かってこの辺りに、現在地に移転する前の白須賀宿があった名残で、ここも白須賀宿に含まれているのでしょうか。

 

かっての宿場町を偲ばせる古い建物もちらほら見受けられました。

 

民家の柿の木に柿がたわわに実っていました。

 

    

「潮見坂下」から3分弱歩くと左手に「塩見観音 蔵法寺」の案内看板が立っていて、寺は100m程左に入ったところにありました。

「蔵法寺」は平安時代790年ごろに前身となる寺が建てられ、慶長三年(198)曹洞宗に改宗されてから現在に至っています。それより以前、徳川家康が竹千代と言われた天文十六年(1547)、今川氏の人質として駿府(現在の静岡市)に護送の際の宿舎が蔵法寺でした。このことから将軍家の小休憩所に定められ、慶長八年(1603)将軍徳川家康より寺領として朱印地二十三石を受けました。これによって当時の蔵法寺は大繁栄し、境内は街道を越えて遠州灘の海岸にまで接したといわれます。住職は将軍代替わりの度に、御朱印状書き替えのために江戸城までを往復しました。その時の住職の乗り物である駕籠は、のぞき窓の簾が黄色の綾糸で編まれ装麗を極め、「黄のお駕籠」と言われ行列も美しく十万石の大名の格式を備えていたそうです。

 

    

旧東海道に戻り約3分歩くと左手に立派な「長屋門」を持つ民家がありました。

 

その隣に「神明神社」がありました

 

    

「神明神社」を過ぎるとほどなく左手に「高札建場跡」と風化して文字の読めない石碑がありました。この石碑は「白須賀一里塚」で石碑には「一里山旧址」と刻まれていたようです。

 

白須賀宿がかってあった元宿の町並です。津波で壊滅したため普通の住宅地の町並です。

 

    

「白須賀一里塚跡」から約4分、信号のある交差点に来ると家並みは途切れ、旧東海道は田園の中を進みました。

 

    

信号のある交差点から約8分、左手の白いフェンスの向うに「白須賀宿 火鎮神社」の看板がありました。一応ここも白須賀宿として扱われているようでした。

 

    

その「火鎮神社」は階段の奥の山の中にありました。この辺りの神社仏閣の多くは、海岸より少し高台に位置していますが、津波の被害を避けるためでしょうか。

「火鎮神社」の御祭神は「火之迦具土神(ひのかくつちのかみ)」、「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」とともに「徳川家康公」が祀られています。由緒正しい神社だそうですが、応永年間(1394~)の津波、安永年間(1772~)の火災等で古文書は消失し、詳細は不明だそうです。しかし徳川家の保護を受けていたことは確かです。

 

    

「火鎮神社」から3分強歩く右手に「明治天皇御野立所址」の石碑が立っていました。明治元年9月20日、東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇がここで休憩された場所です。

 

    

「明治天皇御野立所址」から6、分歩くと右手に「立場跡」がありました。この立場は新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家が務めていました。

 

「立場跡」を過ぎると、旧東海道の海側には松並木が続いていました。

 

途中、特異なデザインの民家を見つけました。初めて見るデザインです。

 

    

「立場跡」から約4分歩くと、右手に「藤原為家・阿仏尼の歌碑」がありました。

  ”風わたる濵名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣船”  前大納言為家

  ”わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで”  阿仏尼

と刻まれていました。  

※その場では読めなかったので後で調べました。

 為家は歌人の藤原定家の次男で、阿仏尼は為家の側室です。
   

つづく