「寿泉禅寺」を後にして、国道1号線の広い歩道をただひたすら歩きました。

 

約20分後、左手に「mont・bell」の店舗がありました。この辺りに「飯村一里塚跡」の石柱があるはずなのですが見当たりません。

 

    

辺りを探し回りやっと見つけた石柱は、進行方向からは電柱の陰になり全く見えません。「mont・bell」から見ると、電柱に並んで立っているのがよく分かりました。

 

      

江戸から数えて73番目の一里塚です。周りはすっかり市街地化され、一里塚の名残は全くありませんでした。

 

    

旧東海道は、一里塚のところで国道1号線から分かれ、左の道を進みましたが、町の雰囲気は全く現代の住宅地そのもので、往時を偲ばせるものは何もありませんでした。

 

一里塚跡から20分弱歩くと、道路はY字路になっており、旧東海道は左の道を進みました。

 

    

左折してから1分弱、前方に松並木が見えてきました。その松並木の手前に石柱が立っていましたが、

 

    

                 当時の姿

「豊橋の巨木・銘木100選」にも選ばれたこの松は、高さ11m、幹周2.34m、枝張り17×16m、樹齢約150年で、「旧東海道のクロマツ」として親しまれていました。二川の旧東海道松並木跡に残った最後の一本の松でしたが、この木も朽ちて、ついに 2007年2月28日に伐採され、 今は記念碑だけになっていました。

 

記念碑の先には、新しく松が植えられ並木が再生されていました。

 

「旧東海道のクロマツ跡」から約10分、ほぼ真っすぐな道を歩いてきましたが、左に大きくカーブする場所に着きました。本来の旧東海道は、ここを直進でしたが今は「ガーデンガーデン」という大きな花屋さんの敷地になっているため、

 

    

ここを左に曲がり、つき当たりの丁字路を右折しました。右折して花屋さんに沿って歩いていると、「信州庵」という蕎麦屋さんがありましたが、旧東海道はこの辺りに出てくるようです。

 

丁字路を右折してから約8分「火打坂」という交差点に着きました。

 

交差点から右後方を見ると、岩屋緑地公園が見えました。ここには「岩屋観音像」が立っているそうですが、時間の関係上行けませんでした。

 

「火打坂交差点」を越えると、旧東海道は緩やかな下り坂のS字カーブになり、

 

約2分後、右手に大きな石の道標がありました。

 

    

この道標は明治33年に立てられ、「右 東海道 豊橋一里半」、「左 渥美奥郡 道」と刻まれています。ここが東海道と知多半島の伊良子神社に向かう渥美奥郡道との分かれ道です。道標から判断すると、明治33年には吉田から豊橋に地名が変わっていたようです。

 

    

更に約2分歩くと、JR二川駅があり、駅前ロータリーの植え込みの中に石碑が立っていました。

 

「是より 岩屋八丁」と刻まれていました。弘化4年(1847)に建てられたものを、その後ここに移設されたようです。

 

駅前にある時計も江戸時代をイメージしたデザインになっていました。

 

    

二川駅を過ぎると格子窓を持つ古い建物がチラホラ見られるようになってきました。

 

古い建物には「二川宿」と書かれた青い暖簾が掲げられ、雰囲気を醸し出していました。

 

二川宿は当初二川村と大岩村の2ケ村で一宿分の業務を行っていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転し、二川宿と大岩加宿となりました。天保14年(1842)には本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1468人でした。

 

約6分歩くと信号のある交差点に着きました。

 

    

この交差点を左折すると「大岩神明社」がありました。

「岩屋神明社」は、文武天皇2年〔698〕岩屋山南に勧請したのが始まりで、大岩村の移転に伴い幾度か遷宮し、天保元年(1644)大岩村が現在の地に移転したのとともに移りました。江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものだったと伝えられています。

 

    

町並みも大分旧宿場町らしくなってきました。

 

「大岩村東まつづくり会」による街灯も雰囲気を醸し出しています。

 

    

「大岩神明社」前交差点から約3分ほど歩くと、豊橋商工信用組合の手前の民家の軒下に「西問屋場跡」の石柱が立っていました。

 

    

更に1分強歩くと右手に「中島屋」という和菓子屋がありましたが、その店先に「高札場跡」の石柱と小さな灯籠が立っていました。

 

「高札場跡」を過ぎたあたりから、古い建物にはかって営んでいた家業と屋号を書いた表札が掲げられていました。

 

    

この建物は現在は「春日屋」という教科書販売店ですが、かっては伊勢屋という旅籠屋でした。

 

    

この建物のすぐ先に「本陣資料館」がありました。道路沿いに柵があり、その柵と建物の間に「二川宿本陣跡」の石碑が立っていました。

 

    

資料館の中には入りませんでしたが、外から柵越しに建物の内部の様子がみられ、大名が乗ったと思われる駕籠もありました。

二川宿は小宿場で旅人の宿泊も少なく経営的にも苦しくまた火災などもあり、本陣役は当初は後藤家でしたが、紅林家そして馬場家と交代しました。この建物は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、昭和60年(1985)に馬場家より本陣の土地建物の寄贈を受けたことを契機に、昭和663年より3ヵ年をかけて改修工事を行い、本陣建物が最も整備されてた江戸時代末期の姿を再現したものです。

 

 

本陣資料館の前に建つ「西駒屋」です。

「西駒屋」は二川町字新橋町に所在する商家「駒屋」から分家した「東駒屋」から分家し、明治40年に味噌・醤油の醸造業を創業しました。明治時代に建築された主屋は、切妻造平入の三州瓦葺で、この地域特有のたたずまいを有していると評されています。国の登録有形文化財に指定されています。

 

「西駒屋」から約1分歩くと、左手に民家がありましたが、ここが「脇本陣跡」でした。

二川宿の脇本陣は松坂家が務めていました。文化4年(1807)以前はこの地に本陣がありましたが、文化4年に本陣が紅林家から馬場家に移った際に、もとは街道の南側にあった脇本陣はこの地に移ったとのことです。

 

当時を偲ばせる建物が続きました。この辺りの建物は「和泉屋」、「中村屋」という旅籠屋跡のようです。

 

    

「脇本陣跡」から1分強の十字路の左手前角に「東問屋場跡」の石柱が立っていました。

 

「東問屋場跡」から約1分、左手に先ほど見てきた「西駒屋」の本家である「駒屋」がありました。現在でもカフェや雑貨屋等の商いをやっています。建物は豊橋市指定の有形文化財で、内部は無料で開放されています。

 

    

「駒屋」を過ぎるとほどなく「新橋」という小さな橋があり、橋を渡ると左手に「二川八幡神社」の鳥居が見えました。この神社は二川村の氏神様として信仰を集めており、元は鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請してきたと伝えられています。

 

八幡神社の向かいにある「江戸屋長左エ門」という和食屋がありました。事前に調べ本日の昼食はここにしようと思っていたのですが、予約していないと入れないとのこと。残念でした。

 

    

「二川八幡神社」の200m程先に「一里塚」の石柱があったはずなのですが、気が付かずその先の踏切まで行ってしまいました。そこで地図を見直して通り過ぎたことに気づき、やっと「川口屋」の看板が出ている建物の角で見つけました。「二川八幡神社」から2分とかからない距離にあったところを6分もかかってしまいました。江戸から数えて72番目の一里塚ですが、やはり一里塚があったことを窺わせるような遺構は見当たりませんでした。

 

先ほど引き返した東海道線の踏切に戻り旅をつづけました。

 

つづく