有松郵便局の脇に久しぶりに見る石の道標が立っていて、表に「東海道」、右脇に「大府行懸道」と刻まれていました。

 

    

郵便局から200m弱歩くと、小さな水路があり、そこに架かる橋の欄干に有松絞の文様が描かれていました。

 

そこから約2分で国道1号線に合流し、左折してしばらく国道の歩道を歩きました。

 

このあたりから国道を挟み、右手(南側)は豊明市、左手は名古屋市緑区になります。そろそろ名古屋市ともお別れです。

 

国道を歩くこと約7分、「名鉄中京競馬場前駅」前の交差点に「桶狭間古戦場」の案内標識がありました。

 

実は単調に国道を歩いてきましたが、本当は途中で右に折れ、国道に並行して走る道が旧東海道でした。緑の線が実際に歩いたルートで、途中の赤い線が本当の旧東海道のルートでした。

 

    

丁字路の交差点を右折すると、左前方に緑の公園が見え、角には「史跡桶狭間古戦場」と刻まれた石碑が建っていました。

 

昭和12年12月21日に設置された説明板によると、ここは永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した場所と伝えられています。今川義元、松井宗信他無名の人々の塚があり、明和8年(1771)には「七石表」が、文化6年(1809)には「桶狭間弔古碑」が建立されています。

 

その「七石表(一号碑)」です。塚は全部で7カ所あり、ここはそのうちの一つです。

 

「七石表」のそばには、「今川義元の墓」がありました。ここは元は塚でしたが、有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月にこの墓を建てたそうです。

 

「忌古碑」です。読みづらくなっていますが、碑の表面には「桶狭間の戦いを回顧する文章」と往時をしのぶ歌、裏面には建碑の趣旨が刻まれています。

 

ここには数人のボランテイアのガイドがいて、訪問者に説明をしていました。その人の説明によると、この公園は国の所有地で、通路をいじるだけでも文化庁の許可がいるそうです。

 

また道路を挟んで西側にある崖から織田信長軍が攻め降りてきたそうです。

 

古戦場から少し南に下ったところに「高徳院」がありました。弘仁元年(810)開創の古刹で、開創以来高野山上にありましたが、明治27年に本尊及び寺名をこの地に移し、本堂を建立して安置しました。境内に「今川義元の本陣跡碑」もあるそうです。

 

    

織田軍が駆け下りたという崖下に多くのお地蔵さんが立っていて、その真ん中に「徳本の名号」と呼ばれる円筒形の小塔がありました。徳本行者(江戸浄土宗の高僧)がこの地を訪れて、敵味方の戦死者の霊を弔うため建てたもので、「南無阿弥陀佛」の六文字が刻まれています。

 

 石段を挟んでその横には「今川義元仏式の墓碑」があり、法名を刻んで建立された供養塔です。今川義元の300回忌(万延元年)にあたりたてられたものです。

法名は「天沢寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士」です。さすがに今川義元、長い。

 

ちなみに、ここは豊明市ですが、有松駅南方約2kmのところに「桶狭間古戦場公園」があります。こちらは名古屋市緑区桶狭間北にあり、双方で本陣争いをしているようです。

 

旧東海道に戻ると、横断歩道の正面に「桶狭間古戦場まつり」の横断幕がありました。本日は5月29日。お祭りは6月第一土日ですので、来るのが1週間遅ければ祭に出会えたはずです。残念。

 

旧東海道(国道1号線)に出て1分少々歩き、名鉄のガードをくぐると、

 

中京競馬場へ向かう入口があり、馬と蹄鉄のモニュメントが建っていました。

 

蹄鉄のモニュメントの100m程先で旧東海道は国道1号線から外れ、斜右に分岐しました。

 

そこからは特に見るものはなく、ただ暑い中黙々と8分弱歩き、信号のある十字路を直進しました。

 

    

交差点から約2分、左手に石柱がポツンと立っていて、「寂応庵跡」と刻まれていました。

寂応庵とは、江戸末期慶応元年(1865)知多郡北崎村(大府市)に住む「とう」という女性が寂応和尚の感化を受け、東海道を行き来する旅人の難儀を救わんと、剃髪して仏門に入り「明道尼」と改名し、東海道に面した落合の集落に「寂応庵」を建て、無料の休憩所を開設し、お茶の接待をしたそうです。

 

さらに3分ほど歩くと、電柱に「戦人塚」の案内看板がありました。

「戦人塚」とは、桶狭間の戦いで敗れた今川方の将兵約2500人を供養した塚で、今でも曹源寺の住職が供養を続けているそうです。国指定の史跡です。残念ながら片道300mあるので行くのは諦めました。

 

そこから5、6分で名鉄前後駅近くの交差点に着きました。このあたりはただ歩いているだけです。

 

さらに約5分歩いていると、左手に白い壁が印象的な建物がありました。しゃれた和菓子屋さんかと思いましたが、「坂部善光寺」というお寺でした。右の建物は「坂部区公民館」でお寺と公民館が一体化した珍しい施設です。

 

    

「坂部善光寺」から6分強、左前方に「阿野一里塚」が見えてきました。多くの一里塚が消滅する中、左右両方の一里塚が残されている貴重な一里塚です。

 

    

一里塚を過ぎるとほどなく県道51号線の高架橋があり、その先ですぐ国道1号線に合流しました。

 

ここでお昼時となり、国道との交差点角にあるラーメン屋でつけ麺を食べました。美味しかったです。

 

    

国道に合流してから9分弱歩くと、「豊明インターチェンジ」があり、インターチェンジの高架の下で国道1号線から分かれ、左折しました。

 

左折すると直ぐ右にカーブし、

 

約3分で、「境橋」に着きました。

慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立会いで橋が架けられました。この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、度々の洪水に流され、修復されました。やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになりました。

境橋が架かる境川が尾張と三河の境界線になります。

 

つづく