七里の渡し跡」に着きました。道標の矢印は海に向かっています。しかし道はまっすぐ続いていますので行ってみました。

 

乗船の前に直進すると、右手石垣の前に桑名保存会が設置した「七里之わたし」と刻まれた石柱があり、

 

道路はそこで左にカーブしていました。道路の舗装は今まで通りですので、これが現在の旧東海道のルートのようです。

 

左に曲がる角に料亭旅館「山月」がありますが、ここは「脇本陣駿河屋」があったところで、明治38年から料亭山月として営業しています。桑名宿には脇本陣が4軒ありましたが、「駿河屋」が一番格式が高かったそうです。

 

「駿河屋」跡の横にあるのは、「大塚本陣」跡です。「大塚本陣」は桑名宿最大かつ最高の格式を持った本陣で、裏庭から直接乗船できたそうです。現在は明治から続く料理旅館「船津屋」として営業しています。

 

「山月」の玄関前に歌碑がありました。この石は昭和20年の桑名空襲の際に、近くの城壁から吹き飛ばされてきた石で、「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」と刻まれています。

 

「船津屋」の塀の中に埋め込まれたような形で石碑がありましたが、なんと刻まれているかはほとんど判別できませんでした。 

そばにある説明板によりますと、これは「歌行灯句碑」で

  ”かわをそに 火をぬすまれて あけやすき”  

と刻まれているそうです。

意味は、「カワウソに灯りを盗まれたので、朝の明かりが分かりやすい(明易い)」でいいんでしょうか?

 

明治の文豪・泉鏡花は、明治42年11月に桑名に来て、「船津屋」に宿泊しました。この時の印象を基に小説にしたのが「歌行灯」です。昭和14年東宝映画から依頼を受け、劇作家・久保田万太郎は「船津屋」に泊まり、3か月ほどで戯曲「歌行灯」を書きあげました。その後再び「船津屋」に宿泊した時、「船津屋」の裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪さをするという噂話を聞き、詠んだ句がこれです。自筆のこの句碑は、揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に立てられました。

 

「七里の渡し跡」に戻ると、大きな鳥居と常夜灯が立っていました。

天明年間に建てられ現存渡し場に建つ大鳥居は、下船後に伊勢路を歩くため「伊勢国一の鳥居」と称され、現在も神宮(伊勢神宮)の遷宮ごとに建て替えられています。そばに立つ常夜灯は、多度神社から移築されたものだそうです。

 

    

下を見ると、本日乗船する船が待っていました。想像はしていましたがかなり小さな船です。

当初は3月6日を予定していたのですが、潮の関係で13日なら昔の船着き場から乗船できるということで、本日に変更しました。曇り空でしたが、風がなく穏やかな水面で一安心です。

 

ちなみにこの船は乗合ではなく貸し切りで、何人(最大10人)乗っても税込み38,500円で、今回我々夫婦2人ですので、一人当たり19,250円でした。高いか安いかは分かりませんが、陸路の場合、国道1号線を延々と20km以上歩かなければなりません。時間と労力を考えれば安いと思いました。 

 

これが本日の予定航路です。船頭さんの話では七里ではなく、八里ほどになるそうです。

 

    

12時12分、渡し場を離れ水門を出ました。

 

水門を出て直ぐ、左手(上流)に「長良川河口堰」がお迎えです。このあたりで長良川と揖斐川は合流して一つの川になっています。

 

水面に見える土塁の向うが長良川、手前が揖斐川です。

 

    

12時17分、国道23号線の「揖斐長良大橋」が見えてきました。橋の下部をこのような形で見るのは初めてです。 

 

    

「揖斐長良大橋」を過ぎると、左前方に「ナガシマスパーランド」が右手前方に「JERA川越火力発電所」が見えてきました。

 

    

「伊勢湾岸自動車道」の「湾岸揖斐川橋」を過ぎると、「ナガシマスパーランド」のジェットコースターやウォータースライダーが近くに見えました。

 

海は「「べたなぎ」で水面は鏡のようでした。

 

12時29分、だいぶ岸から離れました。このあたりの水深は1、2mで大型船は通れません。かって本田忠勝に嫁ぐため船で着いた「千姫」は、潮が満ちるのを沖で待ってから桑名の港に着いたそうです。

また蛤の漁場でもあります。船頭さんの話では、蛤には3種類あり、一番高いのは地場で産卵し育った「地物」、稚貝を輸入し育てたもの、成長した蛤を輸入したものだそうです。また生物学的には、「ハマグリ」、「チョウセンタハマグリ」、「シナハマグリ」の3種類に分類できます。

 

海苔の養殖場です。

 

12時44分、灯台を横に見て、いよいよ外海から港の中に入ります。

 

コンテナふ頭のガントリークレインです。

 

珍しいものを見ました。非常脱出用の救命ボートです。高さ10mはありそうなところから水面に落下するそうです。

 

浚渫船も見れました。このあたりの海は、木曽3川から運ばれる土砂の堆積のため、常に浚渫する必要があるそうです。

 

    

自動車運搬船やフェリーも見られました。 このフェリーは「いしかり丸」ですので苫小牧行きでしょいうか。

 

    

途中太平洋戦争の遺構である灯台を見ました。最初の一つは航路上にありましたが、もう一つは船頭さんがわざわざ寄り道して案内してくださいました。

これは終戦間際、米軍機の機銃掃射を受けた灯台です。最初の一つはコークス置き場の近くにあり、火災の心配があるため非公開になっているそうです。

二つ目の灯台は「名古屋検疫所」脇にありましたが、この灯台を見るためだけに寄り道したわけではなく、このあたりから水族館前の水域で「スナメリ」が見られるため、案内したとのこと。

 

「スナメリ」は小型のイルカで、一般に知られている人懐っこいイルカと違い、とても臆病で息継ぎの時以外水面に現れることはありません。いつ現れるか分からないので広い水面に目を凝らさなければなりません。水面に出るのも一瞬なのでその姿をじっくりと見ることはできませんでしたが、その背中を一瞬ですが見ることができました。当然ながらシャッターチャンスはありませんでした。

 

名古屋港水族館を過ぎると、「宮宿」は間もなくです。

 

13時22分、名古屋港水族館を過ぎ左に航路をとり「堀川」に入りました。

 

    

13時37分、「宮宿」の船着き場が見えてきました。堀川を左に遡れば名古屋城のお堀につながります。

 

桑名と違いこちらにはちゃんとした船着き場がありました。

 

    

船着き場は公園になっていて、そこにあったモニュメントには、「七里渡船着(尾張名所図会)」が描かれていました。道沿いに並ぶ旅籠などの家々や、岸につながれた船、道を行く人の多さから当時の賑わいが分かります。

 

これは「熱田湊常夜灯」と呼ばれる常夜灯で、寛永2年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房が、父正成の遺命を受けて熱田須賀浦太子堂の隣地に常夜灯を建立しましたが、その後風害で破損したために承応3年(1654)に現位置に移設されました。現在の常夜灯は、荒廃していたものを昭和30年にほぼ原位置に復元されたものです。
 

これは「時の鐘」と呼ばれるもので、延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に設置されました。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人びとや東海道を旅する人びとにとって重要な役割を果たしていました。昭和20年の戦災で鐘楼は焼失しましたが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、昭和58年に宮の渡し公園内に復元されました。

 

つづく