天白川を渡ってすぐ左側に貞観6年(864)創建の「日永山興正寺」がありました。登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立ち寄られたときに浄土真宗に改宗しました。

 

    

このような昔風の建物がぽつぽつ見え初めました。他の古い建物もそうですが、壁に手書きの道標が掲げられていました。

 

    

「興正寺」から約4分信号の向うに、主祭神として「天照大御神」を祀る「大宮神明社」の木立が見えてきました。

昔は南高校のある岡山のふ麓まで海で、その海辺に「舟付明神」がありました。垂仁天皇の時代に{倭姫命(やまとひめのみこと)」が「天照大御神」を伊勢の地にお遷しする際にこの社に一時お留まりになったという伝えがあるくらい古い神社です。その「舟付明神」が400年ほど前に炎上し、当時出来つつあった東海道の近くに移ってきたのがこの神社です。

6月30日には「那護志大祓なごしのおおはらい)」と呼ばれる行事があり、一般には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあるそうです。

 

    

大宮神明社」から約1分で旧東海道は小さく右カーブして「鹿化川」に架かる橋を渡りました。

 

川の上流には雪をかぶった鈴鹿の山々が見えました。

 

ここから1Kmほど南、「笹川通り」との交差点から道路の両側がベージュ色に舗装されていましたが、旧東海道(四日市宿)であることを示しているのだと思います。

 

    

「鹿化川」を越えると、民家の古い建物が増えてきて、それぞれの壁には木製手書きの「東海道」と書かれた看板が掲げられていました。

 

    

         現在                         以前

その中で真新しい民家が見えてきましたが、ここは「鈴木薬局」があった場所です。

鈴木薬局は200年以上も続く旧家で、代々勘三郎の名を受け継いできました。4代目勘三郎高春が寛延3年(1750)蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたと云えられています。

古い建物は6代目勘三郎高光が 嘉永5年(1852)に建てたものです。

 

    

「鈴木薬局跡」から3分弱歩き、十字路を過ぎると、旧東海道は右に大きくカーブしました。

 

この辺りから道路端に写真のような幟が多く見られるようになってきました。市制100周年を記念して制定されたキャラクター「こにゅうどうくん」はいたずら好きな妖怪で、お父さんは日本一大きなからくり人形「大入道」だそうです。

 

 

    

近鉄名古屋線の手前当たりには、古い趣の建物が集中して立っていました。

 

それでも時代の流れでしょうか、古い建物が建っていた跡と思われる場所は賃貸マンションと駐車場に変わっていました。今残っている建物も徐々に消えていくのでしょうか。

 

    

古い町並みから2、3分歩くと、右前方に石柱が見えてきました。

主面には「佛法山 崇顕精舎」右に「吉川英治先生梵鐘響流十方」左に「丹羽文雄生誕の地」と刻まれていました。吉川英治については意味が分かりませんでしたが、

 

丹羽文雄はこの石柱の奥にある「崇顕寺」の長男として生まれ、幼少期のここで過ごしたとのことです。

 

    

「崇顕寺」を過ぎるとほどなく四日市市の中心商店街の入口が見えてきました。

 

旧東海道はアーケードのあるこの商店街を進みました。

 

アーケードが途切れる辺りに鳥居が見えてきました。

 

    

諏訪神社」です。例大祭の「四日市祭」が有名です。

 

「諏訪神社」のすぐ先で国道1号線に合流しますが、右手にある横断歩道を渡り、国道の反対側(東側)に移動しました。

 

横断歩道を渡り、左折して2番目の交差点を右折しました。

 

右折すると直ぐに十字路がありますが、右手前角に道標が立っていました。

 

    

 手前側には文化7年(1810)建立の道標が立っていて、「すぐ京いせ道」反対側には「すぐ江戸道」と刻まれていました。

 

そばに立っていた看板によると、旧東海道は商店街の出口からこの角まで直線で結ばれ

ていたようですが、その後の都市改造で今は我々が今歩いてきたようにクランク状になっています。

 

またそばに立つ柱には「旧町名 南町」とその由来が書いてありました。

それによりますと

かって東海道と港に通じる東西道路の交わる四辻の南側に位置した市場であることから、「南市場」と称され、江戸時代には宿場町として栄え、寛文3年(1663)には町名が「南町」と改められました。問屋場や脇本陣、多くの旅籠が集中し、「旅籠町」とも称されました。宿場の中心だったところです。

 

道標が建つ十字路を左折するとすぐ大きな道路との十字路があり、直進しました。

 

十字路を過ぎ歩いていると、電柱に「なが餅」の広告看板がありました。「なが餅」は江戸時代から続く銘菓で、今回の旅でも買って帰る予定のお菓子です。

 

    

十字路から約2分、「問屋場跡」がありました。四日市宿は本陣跡や旅籠跡などの宿場町らしい施設の跡を示す看板がほとんどありませんでしたが、このような看板が立っているのは珍しかったです。四日市市の表示がないので多分ここの所有者個人が掲示されたものではないでしょうか。

 

十磁路から約4分、目的の「笹井屋」がありましたので、躊躇なく店の中に入り目的の「なが餅」を買いました。家に帰ってから食べましたが、やはり美味しかったです。

戦国時代の頃、初代彦兵衛氏がここ勢州日永(なが)の里に因んで創った餅が「なが餅」です。三十六万石の太守、藤堂高虎も足軽の頃、永(なが)餅の美味しさに感動し、武運のながき餅を食うは幸先よしと大いに喜んだそうです。名称も日永(ひなが)の餅、長餅、笹餅、などと称せられ、「なが餅」の今日に至っています。さらりとした小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げた素朴な味わいです。

 

    

「笹井屋」のすぐ先で旧東海道は「三滝川」に架かる「三滝橋」を渡りました。

この橋は、江戸期は東海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架けて替え、さらに大正13年6月、鉄橋(長さ約72m、幅6.3m)に改め、現在の橋は平成6年に完成したまだ新しい橋です。

 

そろそろ四日市宿ともお別れのようです。

 

つづく