草津川の手前左手に「黒門の由来」についての説明看板がありました。
草津宿には3つの入口があり、東海道の「坂口見附」、中山道の「追分見附」そして京方の入口には「黒門」が設けられていました。元々は宮川の南詰にありましたが、後にこの辺りに移築されたようですが、その詳細は不明のようです。
この橋の下を流れる川は「草津川」です。元は追分道標が立っている川が草津川ですが、明治時代に天井川であるため川の流れを変え、現在はこの位置に流れています。
赤い線が旧草津川の流れで、緑の線が現在の草津川の流れです。
草津川を越え、草津宿を出てきましたが、まだ昔の面影を残す民家が数軒見受けられました。
草津川を渡り一つ目の信号の手前右手に清酒「天井川」の古川酒造がありましたが、残念ながら小売りはしていませんでした。
草津川を越えると旧中仙道の道幅は狭くなりました。
一つ目の信号から1分強歩くと、右手に「瓢箪屋」が見えてきました。
店先に建つ道標には「右 やはせ道」と刻まれています。ここを右に曲がれば琵琶湖の「矢橋湊」に繋がり、そこから船で大津に出ることができました。
「急がばまわれ」という言葉を御存じだと思いますが、その語源はここだそうです。大津の膳所に行くには陸路より矢橋湊から水路で行く方が早いのですが、天気次第でどうなるか分からなかったため、旅人は矢橋追分にあるここの茶店で、どちらにするか思案したそうです。室町時代の歌人宗長も
”武士(もののふ)の やばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋”
と詠んでいます。
またここは「矢倉立場」があった所で、旅人が立ち寄って「姥が餅」を食べている様子が安藤広重の浮世絵にも描かれています。
しばらく矢倉の閑静な住宅地を進みました。
「瓢箪屋」から3、4分歩くと、左手に「稲荷神社」の赤い鳥居が見えてきました。鳥居は何基も奥まで続いており、本殿はかなり先のようでしたので行くことは諦めました。またこの辺りにかって「矢倉城」があったそうですが、詳細は不明とのことです。
「稲荷神社」から約3分で旧国道1号線と合流し、横断歩道を渡り、斜め左前方の道に入っていきました。
狭い道に入るとすぐ前方に「一里塚」と赤く書かれた看板があり、そのに小さな公園がありました。
その公園の中に「野路一里塚跡」の小さな石碑が立っていました。側面に」書いてある説明文によると、実際の一里塚はこの石碑の北西約30mのところ(国道から入ってきた辺り)にあったそうですが、明治14年頃私有地に払い下げられ消滅してしまったそうです。
公園を突っきり、右折して国道1号線と県道との交差点に戻り、横断歩道を渡り左折し、50mほど進み、右折したところです。
この道路(旧中仙道、東海道)の入口に道標があり、そこに今歩いた経路がありました。
道標の数十メートル先左手の「教善寺」の鐘楼を見ながら歩いていると、
その約1分後、右手民家の塀の上に「平清宗」についての説明看板がありました。それによるとここ遠藤家に「清宗の胴塚」があり、代々守り続けておられるそうです。
遠藤家の庭先を通り奥に行くと、高さ2mほどの石塔が立っていました。
傍らに建つ説明文によりますと、清宗の父宗盛は野洲市篠原で斬首されたが清宗はこの地で斬首されたことになています。野洲で見た首塚の説明文では、宗盛父子は二人とも野洲で斬首されたことになっていましたが、どちらが正しいかは分かりません。
「清宗胴塚」から約2分、左手に「神宮神社」の鳥居が見えましたが、本殿はかなり奥のようでした。
野路の落ち着いた街並みです。
「神宮神社」の鳥居から1分強歩くと右手に「願林寺」がありました。城門の様ないかつい山門の奥を覗くと、枝を横に広く広げた立派な松の木が見えました。
「願林寺」の少し先にあった石碑ですが、「在郷軍人用地」とは何なのでしょうか?
野路一里塚から約12分、右手前方に赤レンガの構築物がありました。後ろから見るとゴミ置き場のようですが、前に回ってみると、中に「子守地蔵」と呼ばれる五体のお地蔵様が並んでいました。江戸時代のこと、参勤交代の行列の際道端で土下座していた母と息子の前にカブトムシが飛び出し、それを取ろうとした男の子が行列を乱したため、二人とも切り殺されしまいました。
「子守地蔵」が中山道を背にして立っているのは、子供を守れなかったのが理由でしょうか。
つづく