愛知川宿の西側(京都側)のゲートを過ぎると、その先は国道8号線との交差点になっており、旧中仙道は左折しました。

 

      

交差点を左折すると、横断歩道の先の空き地の奥に石碑が立っているのが見えました。近寄ってみるとこれが、日本橋から122番目の「愛知川一里塚跡」碑でした。知らなと見落としてしまいそうなそっけない石碑でした。

 

「一里塚碑」から6分強歩くと前方に橋が見えてきました。

 

    

国道8号の歩道を橋に向かって歩いていると、橋の左手前に「祇園神社」があり、

 

境内に弘化3年(1846年)建立の、高さ4.35mの大きな常夜燈が立っていました。

 

この橋の名前は「御幸橋」ですが、前回の記載したようにかって「無賃橋」と呼ばれていました。

 

    

現在の「御幸橋」は歩道も整備された快適な橋で、左手の上流側を見ると、近江鉄道線の鉄橋と、その先に新幹線の鉄橋が見えました。

 

橋を渡り終えるとすぐに左に入る道があり、旧中仙道はここで国道8号線と別れました。

 

    

国道8号線から県道52号線に左折すると、直ぐ近江鉄道線の踏切りがあり、更に約1分ほど先で県道52号線から分かれ、右の市道に右折していきました。

 

    

右折した右角に、先ほど見た常夜燈と同じような常夜燈が立っていました。この二つの常夜燈を結ぶ形で、当時「無賃橋」が架けられていました。このように川の両側に常夜燈を建てるケースが多かったそうです。横に立っている説明板によりますと、この常夜燈は対岸の常夜燈と対峙しているため「にらみ灯篭」とも呼ばれ、愛知川を渡る旅人の安全を見守り、中山道を行き来する人の大切な道しるべでした。こちらの常夜燈の方が少し早く、文政8年(1825年)に建立されています。

 

暫くあまり変わりのない「五箇荘」の集落を歩いていると、

 

左手に「愛宕神社」があり、

 

 

    

更に1分強先右手に「東嶺禅師御生誕地」と刻まれた石碑が立っていました。東嶺禅師は、享保4年(1719年)にこの地で生まれ、9歳の時に自ら出家され、「臨済宗中興の祖」と呼ばれる「白隠禅師」のもとで修業し、禅の道を定め一門の隆盛につくした僧だそうです。

 

愛知川を越えると、愛荘町から東近江市になりますが、東近江市の名所旧跡にはこのような説明板が整備されていました。

 

東嶺禅師御生誕地」の石碑の後ろに何の木かよく分かりませんでしたがユニークな木が一本そびえていました 。

 

    

東嶺禅師御生誕地」の石碑から約1分先右手に「小幡人形(小幡土偶)」の説明板があり、隣の民家の窓にはその人形が飾られていました。

「小幡人形」は、細居家の初代安兵衛が享保年間に京都の伏見人形の製法を学び、始めた近江唯一の郷土玩具です。その種類は節句人形や十二支など500種類もあるそうです。

 

    

そのすぐ先で、再度近江鉄道の踏切りを渡りましたが、廃線の様な雰囲気の線路敷きでした。

 

踏切りから1分強歩くと、左手に現在風の道標が立っていました。左に行くと「五箇荘駅」まっすぐ進むと「福祉センター」です。

 

「聖徳太子御舊跡碑」の石碑の立つ路地の奥に「法皇山無量壽院善住寺」がありましたが、何か聖徳太子と縁のある寺なのでしょうか。

 

「善住寺」を過ぎるとほどなく、右手に「小幡神社御旅所」と刻まれた石碑が立っていました。

 

    

石碑の後ろに大きな蔵があり、その横に蔵よりかなり小さい「小幡神社」の祠がありました。

「御旅所」とは、神社の祭礼の神輿渡御に際し、本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安する所です。この大きな蔵は、神輿を安置するための蔵なのでしょうか。

 

「小幡神社」から約1分、五差路の左前方角に「右京みち 左いせ ひの八日市みち」と刻まれた道標がありました。近江路には「いせみち」の道標が多く見られます。

 

つづく