「三人の旅人のモニュメントの立つ並木道を歩いていると、大きな工場脇の石畳の歩道にベンチも整備されていました。あまり座る気にはなりませんでしたが。
モニュメントから3、4分歩くと「出口」の交差点に着きました。ここからしばらく左手は「甲良町
」右手は「彦根市」になります。
交差点から約1分、右手に常夜燈と背の高い石柱が2本立っていましたが、地元の戦没者の慰霊碑のようでした。
左手に茅葺の屋根にトタンを被せた民家がありましたが、「水」という文字が書かれてました。他にも同じく「水」と書かれた民家が見受けられましたが、多分「防火」の願いが込められているものと思います。
「出口」交差点から約5分歩くと、左手に「日枝神社」の鳥居が見えてきましたが、本殿自体はあまり大きくありませんでした。
「日枝神社」を過ぎしばらくすると、「ケヤキ並木」が続いていました。
「ケヤキ並木」の中ほど右側にポケットパークがあり、そのすぐ先に「出口」の道標が立っていました。
更に10分強歩くと、「四十九院」の交差点に着きました。この辺りか「四十九院」の集落になります。
交差点の右手前角に「懸社阿自岐神社」の石柱と2基の常夜灯が立っていました。元はここに鳥居が立っていたはずなのですがどうしたのでしょうか。神社はここから西方800mほど先にあります。
交差点の数十メートル先左手の林の中に石碑が立っていました。お供え物がありましたので何かの仏塔かもしれませんがよく読めませんでした。
短い参道の両側には小さな紫色の花が咲いていましたが、「スズムシバナ」と呼ばれる花で、豊郷町の大切な文化財のようでした
更に約4分歩くと左手に「春日神社」の鳥居と2基の常夜灯がありました。
「春日神社」の鳥居から約2分、左手に大きな敷地の「豊郷小学校跡」がありました。今は、「財団法人 豊郷済美会付属 酬徳記念図書館」等に利用されていました。
豊郷小学校は、昭和12年、伊藤忠商店の取締役支配人や丸紅の専務を歴任した「古川鉄治郎」がアメリカの設計事務所に設計させた当時としては珍しいコンクリート校舎と講堂を寄贈したものです。1999年老朽化の為取り壊しの話が出た時、反対する住民との裁判沙汰にもなりました。現在は改修され図書館や子育て支援センターとして活用されています。
中国からの若い観光客も来ていました。
「旧豊郷小学校」跡の向かいに「やりこの郷」と書かれたモニュメントがありました。
昔干ばつで大変困った村人は、「安児岐神社」の神様にお願いしたところ、”安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水が湧く”とお教えになり、さっそく矢を放つと、「安児岐神社」の東の地面に突き刺さりました。その矢を抜くと清水が湧きだしたそうです。
その清水を「矢池」、矢を放った大木を「矢射り木」と呼び、それが訛って「やりこ」になったと云われています。今日その大木が生えていたところが「矢り木」という地名になっています。
「豊郷小学校前」の信号のある交差点を過ぎるとほどなく左手に「八幡神社」が見えてきました。境内の道路脇には「高宮宿←石畑(間の宿)→愛知川宿」の道標があり、そのすぐ右横に「一里塚の里 石畑」の石柱が立っていました。この地区(石畑)にはかって間の宿が置かれ、立場もあったそうです。
石柱の少し奥にこんもりとした土盛りがありましたが、これが復元された一里塚でした。
境内には「那須城址」と刻まれた石碑がありましたが、この辺り一帯は「石畑宗信」という武将の城でした。石畑という地名はここからきています。
神社の南側の道路に面して鳥居が立ち、その奥に本殿がありました。
「八幡神社」から2、3分、「豊郷町役場」前を通過し、
更に約3分ほど歩くと、左手に「くれない園」と呼ばれる大きな公園がありましたが、この公園は、伊藤忠商店(現在の伊藤忠商事)の創業者・伊藤忠兵衛の功績を偲んで昭和10年に造園されたものです。
その伊藤忠兵衛の碑がありました。
隣りの駐車場は、伊藤長兵衛家の跡地でした。七代目伊藤長兵衛は六代目伊藤長兵衛の娘婿で、伊藤忠兵衛の義理の甥にあたります。
伊藤忠兵衛は六代目伊藤長兵衛の弟です。七代目伊藤長兵衛は大正10年に伊藤忠商店を合併し、「丸紅商店」(現在の丸紅)を設立して初代社長に就任しました。
伊藤長兵衛家の跡地の数軒隣り建つ屋敷は、「伊藤忠兵衛旧宅」です。現在は「伊藤忠兵衛記念館」として無料開放されています。
つづく


























