「一の鳥居」から1分強歩くと、右手民家の柵の中に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙子塚」と刻まれた石碑が立っていました。貞享元年(1684年)の冬、この家(小林家)の主の許しで一泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を描いて
”たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子”
と詠みました。
紙子とは、紙で作った衣服のことで、小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、古い羽織を頂きました。その後庭に塚を作り、古い紙子を納めて「紙子塚」と名づけたそうです。
「紙子塚」から1分強、右手に見えてきた平屋の建物が「脇本陣跡」でした。
この脇本陣は2軒あった内のひとつで、門構えで玄関があり、間口八間、建坪約74坪でした。門前には高札場もあり、また慶長13年(1608年)からは問屋場も兼ねていました。
「脇本陣跡」を過ぎるとほどなく左手に「本陣跡」がありました。
高宮宿には本陣が一軒あり、門構え・玄関付きで間口約15間、建坪約123坪ありましたが、現在ではこの表門だけが残されています。
「本陣跡」の斜め前にある「圓照寺」です。境内には、明治天皇ゆかりの「止饗松(しらんの松)」と呼ばれる松の木や、徳川家康が腰かけたといわれる「家康腰掛石」があります。中に入り探したのですが、
「明治天皇行幸聖跡」の石碑しか見つかりませんでした。
「圓照寺」から2分強、左手に栗の菓子で有名な和菓子屋「旭川庵(きょくせんあん)」がありました。いつもなら入るのですが、どうしたことか素通りでした。
更に1、2分歩くと犬上川に架かる「無賃橋」に着きました。
橋のたもとには「無賃橋」の石碑や「無賃橋地蔵尊」の祠もあります。ただの橋ではなさそうでした。説明板によりますと、
天保のはじめ、彦根藩は増水による「川止め」を解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに命じ、費用を広く一般人から募らせ橋を架けさせました。この橋は渡賃を取らなかったことから「むちんばし」と呼ばれたそうです。
また、昭和52年無賃橋の改修工事の時、橋脚の下から2体の地蔵尊が発見され、この地蔵尊こそ天保3年(1832年)、最初に架橋されたい礎の地蔵尊に違いないと信じ、お堂を建て祀ったものが、「無賃橋地蔵尊」です。
「無賃橋」から見た鈴鹿の山並みです。
橋を渡ったところに「中山道 高宮宿」の道標と「むちんばし」の石柱がありました。
振り返り「無賃橋」を見たところです。
上川」を渡ると高宮宿ともお別れです。街並みも普通の田舎道になりました。
「無賃橋」を渡り約6分、信号のある「法土町(ほぜちょう)」交差点を直進し、
更に5分ほど歩くと、短い「松並木」がありました。
その街並木の中ほどに「つづらマップ」という案内板があり、この周辺の名所が書いてありましたが、公共施設の他はほとんど寺社仏閣でした。
その案内板から2、3分で「月通寺」がありました。
真言宗豊山派の寺院で、別名「柏原菩薩」とも呼ばれており、本堂中央には「行基菩薩」の彫像と伝えられる地蔵菩薩が安置されています。
山門前に立っている「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石柱がありますが、これは「月通寺」の前身が禅宗であった名残を伝えたものです。山門は、左右に本柱と控柱をそれぞれ一組配し、屋根は切妻破風造りの「薬医門」の一種です。
「月通寺」の斜め前に茅葺の民家ありましたが、管理の難しさからそのまま使っている家屋は少なく、ほとんどはトタンでカバーしています。
「月通寺」から約1分歩くと、右手の美容院横の少し奥まった所に「若宮八幡宮 産の宮」と呼ばれる小さな祠がありました。
文和5年(1356年)足利尊氏の子、2代将軍足利義詮の妻がこの地で産気づき男の子を出産しました。家臣9人を残し保護しましたが、男の子は幼くして亡くなりました。ここに土着した家臣9名が竹と藤蔓で作った葛籠を生産するようになり、松寺(義詮の妻が出家した寺)の北方に一社を祀りこの宮ができたそうです。古来「産の宮」として安産祈願に参拝する人が多いそうです。
ちなみにこの辺りの地名は葛籠町(つづらちょう)といいます。
「産の宮」の数十メートル先に、法然上人の石像がある「了法寺」が、
その向いに「還相寺」がありました。
この辺りにはお寺さんが多いように感じました。
更に5分ほど歩くと再度「松並木」がありました。
「松並木」の中ほどに、「鳥居本」の手前で見たモニュメントとそっくりのモニュメントがありました。書いてある文面も同じでした。最初見た時は、鳥居本宿のモニュメントかと思いましたが、どうやらこれは彦根市に所在する中山道の2つの宿場(鳥居本宿、高宮宿)合わせて、中山道を歩く人に対するモニュメントのようでした。
この少し先で彦根市と別れ「甲良町」に入ります。
つづく
























