国道156号線との交差点を越えると左右に由緒ありそうな建物が並んでいました。

 

     

左側の建物の壁に「御成道」と書かれた案内板がありました。その横の路地を指しているものと思いましたが、何の変哲もない道でした。

「御成道」は、慶長5年(1600)9月の「関ケ原の戦い」の際徳川家康が通った往時を偲び、「岐阜お成り」と称して岐阜を訪れることは、歴代尾張藩主の重要な行事となっていました。このお成り行列が通った「岐阜街道分岐」(一宮市北方曽根にある徳隣寺近く) から岐阜城下町「笹士居」の「善行寺」までの道を「御成道」と呼んでいます。

 

 「御成道」入口横にあった「ヨガ、ネイルアート、手もみ、リンパオイル、足つぼマッサージ」等を施術する店ですが、やっていることと建物のイメージがミスマッチでした。(*^▽^*)

    

そこから1分ほど歩くと右手建物の屋根に木製の大きな看板が立てられていました。何かの薬品の宣伝のようですがよく読めませんでした。「登録商標〇〇治水」と読めたのですが。

 

     

国道との交差点から約250m先に、105番目の一里塚である「細畑の一里塚」がありました。両側の一里塚が残っている珍しい一里塚で、往時の風情を残していました。

 

     

「細畑一里塚」の1分強先にY字路があり、角に地蔵堂が建っていました。祠の中には「延命地蔵尊」が鎮座していました。

 

地蔵堂のそばに道標が立っており、正面には「左 伊勢名古屋ちかみち 笠松兀一里」と、右側には「西京道」と、左側には「木曽路 せき 上有知 郡山 道」刻まれていました。ここは「伊勢道追分」と呼ばれるところです。旧中仙道は右の道を進みました。

 

追分から約1分、左側に「八幡神社」がありました。ここには、大正天皇行幸時日陰にされて休まれた松があったそうです。

 

     

更に約2分歩くと風格ある建物が並んでいました。一軒は料亭ですが、看板によるとこの建物は100年以上経っているそうです。

 

古い建物を後にして約7、8分、前方にJR東海道本線の高架橋が見えてきました。

 

「茶所」バス停の横に立っている「火の見やぐら」は、珍しく3本柱でした。

 

     

火の見櫓の少し先右手に、立派な門構えの屋敷がありましたが、どのような建物なのか由緒は分かりませんでした。(w_-;

 

その建物のすぐ先に名鉄名古屋本線の踏切があり、左手に「茶所駅」がありました。

 

     

 

踏切を渡って少し歩くと右手に道標があり、ようやく加納宿にたどり着いたことが分かりました。

道標の横には「御鮨街道」の表示がありましたが、このような内陸部で「御鮨街道」とは何なのでしょうか?

「御鮨街道」とは、岐阜と熱田を結ぶ街道のことで、慶長8年(1603)美濃国奉行であった大久保長安がこの街道を通り、徳川家康、秀忠に「鮎鮨」を献上したところから「御鮨街道」とも「鮎鮨街道」とも呼ばれていました。

 

「茶所駅」から約100m先の十字路で、旧中仙道は右折しました。

 

右折すると直ぐ「新荒田川」の架かる「加納大橋」見えてきました。この辺りから道路の舗装が他の道と区別され、カラー舗装になりました。

 

     

橋のたもとに立っている説明板によりますと、加納の町は慶長6年(1601)3月、10万石の領地を与えられた「奥平信昌」が築いた城下町が始まりでした。その後寛永11年(1634)に中山道の宿場として定められました。「城下町」であり「宿場町」でもある「加納宿」は21の町からなる細長い宿場でした。

 

     

橋の欄干には写真のようなレリーフが何枚か配置されており、きれいにされていましたが、「新荒田川」そのものは普通の川でした。

 

「加納大橋」を渡り1分弱歩くと直ぐ道標がひとる一つぽつんと立つ丁字路に出ますが、旧中仙道はここを左折しました。

 

     

道標には「右 岐阜 谷汲 左 西京」と刻まれていました。旧中仙道はここを左折しますが、右の道(直進)を行くと岐阜城の方へ行けるようです。

 

左折した先は普通の市街地でした。

 

     

左折してから1分強歩くと右手に「秋葉神社」がありました。「加納宿」では町毎に「秋葉神社」があったそうです。

 

「秋葉神社」のすぐ先の十字路を直進し、

 

すぐ次の変則的な五差路を直角に左折しました。加納宿の中は城下町でもあったせいかかなり曲がりくねっていますが、カラー舗装に従って行けば迷わないです。(*^▽^*)

 

     

五差路の右角には「中山道加納宿東番所跡」の標柱が立っていました。ここが東の入口のようです。

 

17km以上に及ぶ「鵜沼宿」「加納宿」間をようやく歩き切りました。

それにしてもこの区間は大きな国道を歩く区間が多く、また市街地中心のルートだったので、旧中仙道を歩いているイメージはあまり湧かなかったです。( ̄□ ̄;)

 

つづく