国道21号線から分かれ、静かな住宅地を歩いていると、右手に「六軒一里塚跡」の白い標柱が見えてきました。隣の看板と被っているため目立ちにくかったです。
一里塚の名残は全くありませんでした。(w_-;
民家の入口横にひっそりとお地蔵様が祀られていました。
「六軒一里塚」から約2、3分、右前方に神社らしき緑の木々が見えてきました。
そこは「神明神社」でした。由来はよく分かりませんが、誰かから奉献された威風堂々とした馬の銅像がありました。
神社の入口左手にある「馬頭観音」は「三面六臂」の穏やかで美しい観音様でした。
時刻もちょうどお昼ごろ、近くに適当な公園も無いので、神明神社の舞台の軒下を借り昼食にしました。(*^▽^*)
「神明神社」を過ぎた辺りから旧中仙道は歩道付きの広い道路になり、「トヨタレンタリース」の店舗がある交差点を過ぎると、電柱のないきれいな道路になりました。
気持ちの良い道路を6分ほど歩くと、右手に「各務原市役所」の堂々とした建物がありました。やはり基地のある行政は予算が豊富なのでしょうか。(;^_^A
更に4,5分歩くと右手前方に大きな公園が見えてきました。旧中仙道は直視するのですが、近くに「ネズミ小僧次郎吉の碑」があるということなので、少し寄り道をしました。
公園の芝部広場を斜めに横切り、名鉄各務原線の踏切を渡り右折し、各務原線の線路と幼稚園の間の路地を進み、「市民公園前駅」を過ぎると、
「神明神社」を書かれた鳥居があり、奥にはいくつかの石碑がありました。
その中に「ねずみ小僧次郎吉の碑」がありました。どうしてこんなところに「次郎吉の碑」があるのか不思議だったので調べてみました。
伝説ですが、各務原台地にポツンと立つ「いろは茶屋」に旅の娘が泊まりましたが、言い知れぬ不安を覚え、隣部屋の「六十六部」に部屋を変えてもらいました。夜中になると「六十六部」の部屋に男が忍び込み、取り押さえてみると宿の主人で、夜な夜な客の金品を奪い殺していたのでした。じつはこの「六十六部」は「ねずみ小僧次郎吉」だったということです。
そういえば「治郎吉の碑」の隣に「いろは茶屋犠牲者供養塔」が立っていました。「ネズミ小僧」の話は別として、「いろは茶屋」で殺人があったことは確かな事のようでした。
旧中仙道に戻り、公園横を流れる「新境川」に架かる「なかばし」を渡り再度歩き始めました。
「なかばし」を渡ってから3,4分、左手に「豆大福」の看板が出た老舗風のお菓子屋さんがありました。こういう誘惑にめっぽう弱い相方は、少し躊躇していましたがやはり店を扉を開けました。商品は、日持ちしないということで「豆大福」を2個買い、歩きながら食べました。さすがに美味しかったです。(*^▽^*)
「豆大福」の「だるま堂」から4、5分歩くと、右手に「西那加稲荷神社」がありました。
更に3分ほど歩くと五差路に出ましたが、旧中仙道は斜め右前方の道を進みました。
五差路を渡ると直ぐ左前方の焼肉屋さんの看板脇に「中山道間の宿 新加納」と刻まれた道標がありました。
「鵜沼宿」と「加納宿」の間は、約18kmもあり、そのため中間地であるこの地に「立場」を設け、人足や荷馬が休息を取りました。また茶屋が設けられ旅人が休息し「間の宿新加納」として栄えました。皇女和宮降嫁の際には、新加納の「梅村屋」で休息されたそうです。
五差路から約6分、右手に「日吉神社」の鳥居が見えてきました。参道を進むと次に赤い鳥居が見えてきて、
その奥に多くの石灯籠が並び、更にその奥に日吉神社の拝殿がありました。
旧中仙道に戻る途中の参道脇に親子の「カエル」の石像がありました。その横にあった板の案内板によると、「車馬を乗り入れること、魚鳥を捕まえること、竹木を刈ること、と並び「蛙を捕ること」が禁止事項として掲示されていました。
言い伝えによりますと、昔「日吉神社」のひょうたん池に大きな蛙が住みつき、村人にいたずらするようになりました。村人は、蛙は腹が減って悪さをするのだろうと思い、池に御馳走を投げ入れました。すると蛙のいたずらがなくなっただけでなく、薬を届けたり、日照りの日には雨まで降らせてくれました。以来「福蛙」として村人に親しまれているそうです。
「日吉神社」から旧中仙道に戻り歩き始めて数分で、道路は右に曲がっていきますが、旧中仙道は直進でした。
曲がり角には小さな広場になっており、
そのに「一里塚跡」(新加納一里塚)と刻まれた2本の石碑がありました。
そこに掲げられた案内板の古地図には、この辺りの様子がよく描かれていました。右上には先ほど見た「日吉神社」が、真ん中あたりには、この先の「枡形」が描変えていました。
つづく


































