「中山道鵜沼宿」の道標がある十字路を過ぎるとほどなく、右手前方に緑の崖があり、木製の看板が立っていました。説明板によると、この崖は「木曽川泥流堆積物」と呼ばれるもので、5万年前に御嶽山が大崩壊をおこし、土砂が木曽川まで約200km流れ下り、各務原台地までたどり着いた溶岩礫を含む泥のことだそうで、ここで堆積物の一部が露出しています。この他にも各務原台地周辺で同様の泥流を確認することができるそうです。
崖の下に、仏塔が3体立っていました。
仏塔の横に石段があり、石段を上ると「蓮池」と呼ばれる池がありました。
また石段の横に立っている説明板によると、ここに「西の見附」があったそうです。
「見附」とは宿場の出入り口に備えた防御施設のことで、江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」に描かれている「家並図」と現代の地図を照らし合わせると、「西の見附」はおおむねこの辺りにあったものと考えられています。
「西の見附跡」の約160m先に多くの仏塔と小さな祠が立っていました。
そこから1分ほど先右側に「衣掌塚古墳」がありました。古墳の大きさは直径52m、高さ7mで、県下最大の円形古墳だそうです。またこの古墳は本来「前方後円墳」だったものが、後世に前方部が壊されて、後円部が円墳状に残された可能性もあるそうです。(*_*)
古墳の横に「空安寺」がありました。立派な山門です。
空安寺から歩くこと約8分、右手に「津島神社」が見えてきました。
鳥居の後ろにある「塀」は、「津島神社藩塀」と呼ばれる「塀」で、「藩塀」とは神社の一施設で、通常は参道上で拝殿の前に存在する短い「塀」のことです。正殿を直視しないようにとか、不浄なものの侵入を防ぐために造られたとも云われています。
その後ろにある建物は「皆楽座」と呼ばれ、農村歌舞伎の舞台として作られましたが、回り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備えた本格的な舞台です。明治24年の濃尾地震で倒壊しましたが、明治32年に再建されました。
津島神社の拝殿です。
津島神社の横は、「羽場公園」と呼ばれる公園になっていました。
「津島神社」から4分ほど歩くと、旧中仙道は「うとう坂」の手前で分かれた国道21号線に再び合流しました。合流地点の道路に囲まれたところに「馬頭観音」がありましたが、こんなところでもちゃんと花が供えられていました。(-^□^-)
国道21号線の歩道を約7分ほど歩くと、「山の前町交差点」があり、そこから国道21号線は左にカーブしながらJR高山線を越えていきます。交差点を過ぎると旧中仙道は国道21号線の歩道はそのまま車道に沿って上らずにそのまま進みました。
車道の下の道を歩いていると左手に「旅人道中安全」と刻まれた石碑があり、
その後ろ「播流上人碑」と呼ばれるに大きな「岩」があり、仏像が2体乗っていました。
説明板も標柱もありませんでしたが、ここが「山の前一里塚」があったところらしいです。
(;^_^A
「一里塚跡」のすぐ先に階段があり、JR高山線を越えると、
再び国道21号線に合流しました。
しばらく郊外型店舗が続く、あまり歩行環境の良くない道を歩き続けました。
右に見える建物は、何かの倉庫かと思ったらJR高山線の「各務原駅」でした。
前方に「航空宇宙博物館」の案内看板が見えてきました。そういえば各務原市には航空自衛隊の大きな基地があります。
国道21号線の交通量は激しくなり、ただただ前に進むだけの歩行になりました。(ノ◇≦。)
JR高山線の「各務ヶ原駅」から20分弱歩くと、県道17号線との交差点「三ツ池町交差点」がありますが、その右手前角に「神明神社」がありました。境内には「神馬」の像があるとのことですが、今回はパスしました。
更に9分ほど歩くと前方に「川崎重工業」の大きな事務所棟が見えてきました。この周辺にはちょっと見ない建物でした。
更に近づいて行くと、今度は「名鉄各務原線」を越えるため、国道21号線は左にカーブしながら高架橋を上って行きました。
JR高山本線の高架橋の時と同じく、国道の側道を進んでいくと階段があり、階段を上ると、左後方に名鉄「三柿野駅」のホームが見えました。
階段を下り少し歩くと、そこは「航空自衛隊岐阜基地」の正門でした。
基地の前で高架橋の下を通って国道21号線の北側に渡り、左折して側道を進みました。
側道から国道21号線に戻り約2分、国道は左にカーブしていきますが、
旧中仙道はそのまま直進していきました。
振り返ると左後方に航空自衛隊岐阜基地の管制塔が見えましたが、意外と低く感じました。
つづく







































