
「大安寺大橋」を渡った先右手の「カフェ」の隣に「鵜沼宿町屋館」がありました。
この建物は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和30年代までは郵便局を営んでいた「旧武藤家住宅」で、市指定重要文化財です。平成18年に各務原市が寄付を受け、資料館として公開しています。
屋敷は、中庭を囲うように、主屋、東側付属屋、西側離れの3棟からなります。主屋は明治24年の濃尾震災で倒壊し、その後再建されたものですが、江戸時代の建築様式をよく残していると云われています。
「旧武藤家住宅」を振り返って見た写真です。その大きさがよく分かりました。(@_@)
「町屋館」の斜め前に、大きく「栄川」と書かれた看板が掲げられた「栄川酒造」の本蔵がありました。明治4年の創業で本蔵や豆蔵と呼ばれる小さな倉庫群は、市の登録有形文化財に指定されています。
「栄川酒造」の向かいの民家が建っている辺りが「本陣跡」ですが、今は説明看板が立っているだけで、当時を伺わせるものは全くありませんでした。
鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じ「桜井家」が務めており、桜井家は本陣の他、問屋、庄屋も兼ねていたようです。
「栄川酒造」の大きな蔵が途切れる辺り右手に「鵜沼宿脇本陣」が見えてきました。
鵜沼宿の脇本陣は、「坂井家」が代々これを務め、安政年間に至り「坂井家」に代わり「野口家」が務めました。門構玄関付き建坪75坪と云われたその建物の間取りが、「鵜沼宿家並絵図」(1964)に詳細に描かれており、現在の建物は、そこに描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元したものです。
内部は一般に公開されていましたので覗いてみましたが、まだ再建されて間もないようでした。
「脇本陣」の一角に芭蕉の句碑が4体立っていました。「ふく志るも 喰えば喰せよ きく乃酒」と刻まれた白い石柱はレプリカで、本物の句碑は、芭蕉が貞享5年(1688)8月
鵜沼を訪れた時、脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受け、その時楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。その現物は「町屋館」の裏庭の小屋に展示されているそうです。
「脇本陣」の横に鳥居と常夜燈があり、その奥に「二宮神社」へ上る石段がありました。
長い石段を上ると更にもう一つ石段がありその上に拝殿がありました。
拝殿に上る石段の左側の石垣の中に「石室」がありましたが、「二宮古墳」の一部だそうです。しかし中には何もありませんでしたが、二宮神社はこの古墳の上に建っていることになります。この古墳は二宮神社ができる前からこの場所にあったもので、古墳の形は円墳で、直径29mです。およそ6~7世紀に造られたものと考えられています。ここに見える穴は、古墳の「横穴式石室」で、「玄室」と外部をつなぐ「羨道(せんどう)」は無くなり「玄室」のみが残っています。
また境内には木の名前を確認することを忘れましたが、保存樹木がありました。
二宮神社の石段を下り旧中仙道に戻ると、左手に江戸時代を感じさせる格式のある建物が4軒並んで建っていました。全てが国指定の「登録有形文化財」及び各務原市指定の「景観重要建築物」に指定されていました。
手前から
旅館業を営んでいた「丸一屋」の坂井家で、明治27年建築です。
その隣が唯一の江戸時代の建物で、同じく旅館業を営んでいた「茗荷屋」の梅田家です。濃尾地震にも耐えたと云われています。
3軒目は明治元年建築の「梅田家」、2軒目の梅田家は本家だそうです。
最後は、昭和5年建築の「安田家」で、ここも「若竹屋」の屋号で旅館業を営んでいました。この建物は比較的新しいですが、軒の高さや表構えを周辺に揃え、中山道鵜沼宿街並みを守っています。
3軒目と4軒目の間にあった「家内安全」と刻まれた常夜燈と小さな祠です。
「若竹屋」の斜め前に「鵜沼西町交流館」があり、その前に立っている標柱には「鵜沼宿 日本歴史街道」と書かれていました。
「交流館」から1分ほど歩くと十字路がありましたが、
その交差点を渡った左の角に「中山道 鵜沼宿」と刻まれた道標がありました。この辺りが鵜沼宿の京都側の入り口にあたります。
鵜沼宿は、美濃に入ってから通った宿場の中ではよく保存され、宿場町の雰囲気を味わえる宿場でした。(*^▽^*)
つづく

























