中山道歩き旅21日目スタートは、「名鉄新鵜沼駅」からです。

 

前回終了した「赤坂の地蔵堂」に戻り、旧中仙道を歩き始めました。

かってこの辺りに「東の見附」がありました。東から「うとう坂」を下ってきた中山道は、この見附で鋭角に曲がって鵜沼宿に入り、西に七町半八間(約839m)の街並みを経て西の見附に至りました。

 

この「赤坂の地蔵堂」には、左右に「左ハ江戸井せんこうしみち(善光寺道)」、「右ハさいしょうみち(在所道)」と書いてあり、道しるべを兼ねていたようです。今も地元の人々に大切にお守りされているようでした。

 

     

「赤坂の地蔵堂」から2、3分歩くと五差路に出ました。その左手前の角に道標があり、「ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう坂  左」と刻まれていました。

 

     

五差路を渡った角に「常夜燈」がありました。またここから旧中仙道の舗装が他の道路の舗装と違う舗装になりました。(*^▽^*)

 

五差路を越えてから1分強で大きな交差点に出ました。  

 

     

交差点を右に曲がったところに復元された「高札」がありました。もともとは「赤坂神社」と「東の見附」の間に南向きに立っていましたが、この「高札場」は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままにこの地に復元されたものです。また復元の際読みやすいように「楷書」に書き直されています。

 

     

交差点の東と西に道標があり、東(手前)の道標には「是より東尾州領」西(向う側)の道標には「是より西尾州領」と刻まれていました。

 

同じ場所に立っている道標にしてはおかしいなと思いましたが、道標の横に立っている説明板によると、この道標はもとはここに立っていたわけではないようでした。

かって中仙道は鵜沼村(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するためこの2本の搒示石を立てました。この2本の搒示石は、明治以降に鵜沼中学校に移されていましたが、「中山道鵜沼宿再生整備」にあたり、ここに移されたようです。説明板の古地図によると、少し見にくいですが、図の左中央辺りで幕府領が尾州領に食い込んでいます。この部分の両端にこの搒示石を立てたようです。

 

交差点の左前方に大きな建物がありますが、ここが「鵜沼宿問屋場跡」でした。

鵜沼宿には東町と西町にそれぞれ1カ所問屋場がありました。ここ東町の問屋場は代々野口家が務めました。野口家は江戸時代後期には、西町の坂井家に代わって「脇本陣」も務めるようになったそうです。

 

交差点を過ぎるとほどなく、「大安寺川」に架かるきれいな橋が見えてきました。

 

     

橋のたもとには木製の常夜燈と「岐阜市へ四里十丁」と刻まれた道標がありました。

 

その常夜燈の隣にあった「カフェ」です。いかにも宿場町という感じの建物でした。

 

     

「大安寺川」を渡ると直ぐ、左手に「安積門(旧大垣城鉄門)」がありました。この門は大垣城本丸の表口に建てられていた「鉄門」で、明治9年に払い下げられた後、安積家の自邸の門として維持されてきたことから「安積門」と呼ばれています。その後各務原市に寄付され、平成21年に当地に移築されたものです。当門の特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗固めていることで、これと同じ門は名古屋城表二の門、大阪城大手門の2例があるのみだそうです。

 

鵜沼宿の案内図によりますと、鵜沼西町のこの辺りに古い町並みが残っているようです。

 

つづく