「上宿の一里塚」から2分ほど歩くと、左手に休憩所があり、一角に大きな石碑と説明板がありました。

 

先ほどから道路の南側(左手)に水路が続いていましたが、「上用水」と呼ばれる用水路です。説明板によりますと、この辺り「上宿地区」は砂礫質の台地の上にあるため雨水など全ての水は地下深く潜ってしまい、昔から水の確保に難儀してきました。しかし水源は隣の「手賀野村」(少し南にある)にあるため何年もの間交渉してきましたが未解決でした。ところが明治30年に駒場村・手賀野村・中津川町が合併して中津町になり、やっと明治31年用水を引くことに合意しました。今も「上用水」は駒場地区の人々にとって大切な用水となっているそうです。ここにある石碑は、手賀野村に対する感謝と、駒場村の先人の功績を後世に伝えるために建てられています。

 

今日も天気が良く、少し暑くなってきましたので、この休憩所でジャケットを脱ぎました。

(-^□^-)

 

少し開けたところに出ると、左手に傘雲を被った「恵那山」がきれいに見えました。(*^▽^*)

 

やがて旧中仙道は緩やかな下り坂になりますが、坂の途中左手に仏塔が沢山並んでいて、小さな祠の中には石仏もありました。

 

     

坂を下りきると旧中仙道は右にカーブし、急な坂道を上りました。坂の上り口には用水が流れていましたが、明治時代に造られた用水の一部でしょうか。

 

     

坂を上り切り左折すると丁字路に出ますが、ここは直進です。道路の舗装で判断できました。

 

丁字路を過ぎ3分ほど歩き、出会った十字路を直進しました。

 

十字路の数十メートル先、今は廃業したコンビニの建物の反対側に「小石塚の立場跡」と刻まれた標柱がありました。

かってこの辺りは「恋し塚」と呼ばれ数軒の茶屋があったそうです。(^~^)

 

     

「立場跡」の標柱の斜め前に小さな塚があり、「嵐讃岐の供養碑」と呼ばれる石碑が立っていました。嵐讃岐は木曽家の有力武将で、千旦林八幡宮(八幡神社)の再建に尽くした人と伝えられています。この供養碑は、寛永3年(1626)に建てられ、中世から近世にかけての墓石様式の変遷をあらわすものとして貴重なもので、市の有形文化財に指定されています。

 

     

「供養碑」の前は丁字路になっており、左に行くと国道19号線の下を通り、中央道中津川インター方面に行けます。旧中仙道は直進ですが、この辺りは、国道19号線、JR中央本線、中央高速道中津川インターが集中する場所で、昔の中仙道はこれらの下に埋もれてしまいました。(ノ◇≦。)

 

     

丁字路を直進し、20mほど先にある案内板横の階段を下り、

 

     

50mほどの坂を上ると変則的な丁字路があり、左に行くと国道19号線に合流しますが、旧中仙道は右に曲がり、すぐ目の前の国道257号線の横断歩道を渡りました。

 

この辺りから旧中仙道のモザイク模様の舗装は無くなりました。(T_T)

 

     

国道257号線を横断後左折し、国道257号線の歩道を150mほど歩き、バス停の先の分かれ道を右に行き、JR中央本線沿いの道を歩きました。

 

2分ほどJR中央本線に沿って歩き、中津川インターの法面に沿って左にカーブすると、その先で旧中仙道は右折でした。

 

     

右折後3分ほど歩くと丁字路があり、そこを直進すると直ぐに「ろくじぞうばし」がありました。

 

     

その1分ほど先右手に高さ2mほどの石塔がありましたが、これが先ほどの橋の名前「ろくじぞうばし」の元になった「六地蔵石幢(せきどう)」です。六面に地蔵像が刻まれた石灯籠型の珍しいものです。

100mほど南にある「大林寺」の入口に明暦3年(1657)に建てられ、「大林寺」への入口を示すと同時に、水害の被害を仏にすがって避けることや中山道を往来する旅人の道中安全を願うためのものでした。

 

「六地蔵」辺りから旧中仙道はほぼ直線に延びていましたが、真正面にひときわ目立つ山がありました。地図で調べたところ、多分標高492mの「若山」だと思います。

 

「六地蔵」から約6分ほど歩くと、右手に「式内 坂本神社八幡宮」と書かれた大きな石碑があり、奥には鳥居が見えました。

 

     

入口左側にあった常夜燈です。手前の常夜燈には「五穀成就」と刻まれていました。

 

「坂本神社入口」から少し歩くと右手に「千旦林村高札場跡」と刻まれた標柱がありました。ただ標柱が建てられているだけで、周りは何の変哲もない民家の庭先のようなところでした。

 

更に4、5分歩くとY字路がありました。

 

     

Y字路の角にあった道標には「👈 旧国道大井町」と書かれており、青い案内板も左の道を示していました。

 

また左の道の舗装は再びモザイク模様になりました。左の道が旧中仙道のようでしたので左に進みました。

 

つづく