「上組の一里塚跡」から20分弱歩くと、和田中学校への分かれ道がありますが、その左前方に「是より和田宿」と刻まれた石碑がありました。いよいよ和田宿に入りました。
上の石碑より2分ほど先右手に町営バスのバス停がありましたが、その横の階段を少し上ったところに「和田小学校」がありました。休日ということもあり、児童は誰もいませんでしたが、広々とした校庭を持った美しい校舎でした。
「和田小学校」の少し先にポツンと残された残された「門」がありました。後方のお宅の門でしょうか?何か由緒があって残したのか分かりません。
この辺りから宿場町らしい町並みになってきました。
「和田小学校」から5、6分歩くと右手に「八幡社本殿」がありました。
祭神は応神天皇で、かって和田城主大井氏の鬼門除けとして作られたとの伝承があります。
本殿は一間流造で蟇又(かえるまた)に巴紋が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇(ぐんばいうちわ)形となっているのが特徴だそうです。
本殿の前には樹齢350年と言われる欅の木が立っています。
※蟇股とは、和様建築で,梁や頭貫 (かしらぬき) 上にあって上の荷重を支える材のこと
「八幡神社」を過ぎて100mほどで和田宿の中心部に入ります。
「狐穴沢川」に架かる橋を渡ると右手に「旧旅籠かわち屋」の建物はありました。文久元年(1861年)の大火で焼失しましたが、その年の10月に本陣、脇本陣とともに再建されたものです。出梁造りで格子戸の付いた宿場建築の代表的な建物で、江戸末期の建築様式をよく伝えています。
昭和56年、歴史の道路整備事業の一環として総工費3000万円で、延べ床面積422㎡を復元し、「歴史の道資料館」として開放されています。
この辺りから宿場町時代の建物を再現した建物が多くみられるようになりました。
旅籠かわち屋の斜め右前、上の写真では左に見えるのが「問屋」跡です。
街道の左右には当時の旅館様式の古い建物が多く見られました。一部は当時の姿に改修したものもあるようです。
ちょっとしたオブジェも凝っていました。
当時の面影を残す建物群を見ながら歩いていると、宿場の中心地の交差点角に「本陣跡」が見えてきました。和田宿本陣は文久元年(1862年)の大火で焼失しましたが、同年11月皇女和宮降嫁に備えて直ちに再建され、その後明治期に座敷棟は丸子町龍願寺へ、座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築されました。現地の御入門は、復元されたものです。なお居室棟・冠木門は旧位置に復元されましたが、御入門はすでに整備された道路の関係から、旧位置とは異なる場所に復元されています。
本陣の向かいにある地元料理の食堂「かあちゃん家」です。当日は営業していませんでした。
本陣から少し先にある「米屋鐵五郎」です。文政時代に「米屋」という屋号の商家があった場所で、江戸時代「米屋鐵五郎」という者が問屋を営んでいたとのことです。この建物は地域おこしのために、地域住民の手で地域の交流観光拠点として改装・整備されたものだそうです。
「米屋」の向かいに「脇本陣跡」がありました。この建物も皇女和宮降嫁に際し再建されたもので、現存の建物は翠川家の御殿部分のみですが、上段の間、二の間、脇上段、次上段の間のほか風呂場、厠等江戸末期の姿をよく伝えており、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構だそうです。
つづく


















